平山町 天満神社 市指定無形民俗文化財の「平山の大名行列」

天満神社
長崎市平山町447
市内から野母崎へ向かう499号線の平山台団地入口バス停近くにある。
山へ行く道沿いに一の鳥居がある。
短い石段を登ると境内に出る。正面に小ぶりの社殿。銅葺きの屋根だが板張りの壁が古く、それが全体を貧相に見せているようだ。
向拝には場違いのような、しっかりとしたしめ縄が張られていて、扉は素通しの格子。
拝殿はガランとしていて、人の気配がない。天井の全ての枡には絵が描かれている。
表に出て神殿を見てみると立派な屋根である。
まあ社殿は古いが、平山地区の氏神としての歴史はあるらしい。

天満神社

天満神社 参道

天満神社 拝殿

天満神社

天満神社 天井の枡には絵画

天満神社 神殿

天満神社
御祭神は管原道真公
由緒
創建は寛永3年(1626)で平山の氏神として親しまれています。天満神社の祭神は菅原道真公で、江戸期は天満宮と称し明治維新を受け天満神社になったものと考えられます。平山は江戸時代、佐賀藩深堀領に属し、穀倉地帯でもある平山は大変重要地で、天満宮大祭の折には毎年、五穀豊穣を祈願して深堀家より金品の奉納がなされていました。
平山という地名の由来だが、集落のある平地部がゆるやかな丘になっているからとある。長崎は山と海ばかりなので、平地は貴重な場所である。
鎌倉幕府の基本法「御成敗式目」の第一条には「神社を修理し祭祀を専らにすべき事」とある。幕府は神仏を保護し、寺社奉行が社寺関係の事務を担当している。
当然、地方とはいえ佐賀藩も同じことをしたはずである。
この神社の創建は1626年で江戸時代前期である。
長崎ではキリシタンが本格的に禁教となっていく時代だ。
1612年(慶長17年)徳川家康によるキリシタン禁令、1619年(元和5年)徳川秀忠によるキリシタン禁令の高札設置などの度重なるキリスト教の禁止を経て、1629年(寛永6年)に絵踏を導入している。
禁教時代に突入すると、長崎から逃げ出したキリスト教徒が、難を逃れて地方へ散らばっていく。
長崎半島南部は、交通の便が悪く、役人の追っ手がかかりにくいので、隠れキリシタンが多くいたようである。
ここの天満神社は、その世情に呼応するように建てられていると思う。
市指定無形民俗文化財に「平山の大名行列」というのがある。
由来:慶応2年(1866)本町の下級武士、山崎武右衛門外数人が、深堀城下に出入りしていた際、大名行列に関する巻物を入手し、又、家紋入りの行列用具を下付された。そこで以前から伝えられていた五穀豊穣祈願のための田祈祷雨乞い等の浮立のはやしを振付けて、地元の氏神様の天満宮に奉納したのが始まりとされている。
平山の大名行列
上演場所は平山天満神社境内である。
そういえば神社の前はブルーシートで覆われていた。何か境内の補修をしているのかな。
近年の歴史も調べてみた。
昭和17年 長崎からのバス路線が開通
昭和24年 平山町になる
昭和50年 平山の大名行列が市の無形民俗文化財に指定
昭和56年 平山団地一期工事完成
平山台団地 住宅地造成のため琴海産業開発、野村不動産が平山町に開発した住宅団地
平山町といえば、やはり団地だろう。
近年では大きなスーパーも立ち並び、道も整備され、長崎の大きなベットタウンになっている。
昔も今も、平地というのは好条件で、この地域には大きくプラスになっているはずだ。
ここの天満神社は歴史もあるし由緒もある。
開発事業で神社が邪魔者扱いされなければ、また最盛期のように復活するかも知れない。
氏子さんの信心に期待したいと思う。

天満神社 牛の顔がおかしくなっている

天満神社