橘神社 軍神橘陸軍中佐を祀る

橘神社 前

橘神社

雲仙市千々石町己529

場所は長崎から、雲仙島原方面に行く途中で、愛野展望台を過ぎ、千々石の海岸脇の道路を通り、上り坂になった途中にある。

大きい鳥居が目印で、ここには、正月にギネスブックにも認定された「世界一の門松」が作られ、飾られると、いつもテレビのニュースになる。

橘周太中佐の銅像

橘公園

橘公園

橘公園

橘公園

橘公園 千々石中学校

鳥居手前の右手に、彫刻家・北村西望作による橘湾を望む勇ましい橘周太中佐の銅像が立っている。

今回行ったのは4月1日で、花まつりという催しが行われていて、参道には左右に出店が並び、桜満開の桜並木道を賑わせていた。

ここは橘公園で、神社は奥にある。公園敷地内にある河川公園は、自然石を使って整備した親水公園で、子どもたちも水遊びができるキレイな公園である。

神社の主祭神は橘周太陸軍中佐、創建は1940年(昭和15年)だ。

橘中佐は軍神と認定され、色んな所に書かれているので略歴だけを記す。

長崎出身で日露戦争に従軍、遼陽会戦で首山堡高地にて戦没した軍人だ。生前は大隊長だったが、没後昇進して中佐になった。

橘神社 参道

橘神社

橘神社 社務所

橘神社

橘神社 手水舎

橘神社

橘神社

橘神社

橘神社

軍神

軍神は古代から日本にいる。

天孫降臨で、瓊瓊杵尊が大和を収めるために地上にやってくる。武甕槌神(たけみかづち)と経津主神(ふつぬしのかみ)が先発して平定したという故事が『日本書紀』に記されており、その2柱の神をそれぞれ祀った鹿島神宮・香取神宮は、古くから軍神として崇められた。

大和を建国した大国主神や、その子供で武甕槌神と戦った建御名方神(諏訪大社の祭神)も軍神とされている。

それ以外にも楠木正成、新田義貞、有名なのは八幡神で、広く武士達に軍神として崇められる。

そんな日本の歴史の中で、近代日本でも軍神が登場する。

乃木希典大将、東郷平八郎元帥は有名だ。

軍神。最初は公式のものではなく、主にマスコミが尊称として用いていたのだが、西住小次郎以後、軍が公式に指定するようになり、軍神に指定された軍人の生家には「軍神の家」という表札が掲げられるようになる。軍隊内においても精神的な指導としてもあった。また、この時代は皇室に忠誠を尽くした日本史上の人物も軍神の象徴として神格化された。ウィキペディア

戦時中の軍神指定だが、やはり引っかかるものがある。

戦時中なので戦意高揚のために、軍のシンボル的存在を作るというのは、わからないわけではないが、それを「神」と呼ぶことに違和感を感じる。

ただ、日本の陸軍海軍だけを責めるわけはいかない。宗教には必ず人物を特定して教徒のあるべき姿をシンボル化していく。

たとえばカトリックだが、聖人の指定を教会が行う。それ以外でも様々な宗教で行われていることは事実である。しかしそれは教義があり、指導者がいる「宗教」と呼ばれる組織の中での話で、日本の神道が宗教かという疑問もある。

教義もなければ指導者もいない、自然信仰から出来上がった日本の信仰の総称が、神道だと私は認識してい。

ある人物を神と崇め、祀ることは問題ではない。

しかしそれが軍隊の上層部が行なったことに、拒否感があるのだ。

軍が指定した軍神の人たちは、文武両道で人間的に素晴らしい人だということは十分認める。

軍が指定した軍神以外にも、たくさんの至誠の人はたくさんいただろうと思う。その中からある特定の人物をチョイスする事を、軍がある目的を持って行なってきたという事が気に食わないのだ。

この感覚は、おそらく皆さんもわかっていただけると思う。

しかし、この引っ掛かりは、恐らく長い時間を経ていないことで生じるのかも知れない。

橘神社が千年ほど続き、その時も橘神社が存在して、みんなが参拝していれば、そんな引っ掛かりを持つものもいなくなるだろう。

「神」に成るという事は、恐らく沢山の時間が必要で、神を認めるということは、普通の人々次第である。

橘神社が千年後もこの地に残っていることを期待したい。

橘神社

橘神社 橘中佐の妻の祠

橘神社 神殿

「千々石」の地名の由来

千々石」の地名の由来は、高来郡西北に比遅波(ひじは)とよばれる断崖があり、付近にあった池を土歯(ひじは)池といった。この「ひじは」が転訛して千々石といわれるようになったとされる。ウィキペディア

この説明はよく聞くのだが、いまいちピンとこないのも事実である。

その千々石の名前を冠した有名人がいる。

千々石ミゲル

千々石ミゲルである。

本名は千々石紀員(のりかず)。棄教後は千々石清左衛門(せいざえもん)。肥前国釜蓋城主千々石直員の子。大村純忠の甥、大村喜前及び有馬晴信の従兄弟。イエズス会による天正遣欧使節に派遣された4人の少年使節の1人で、4人の中では唯一棄教してキリスト教から離れたと伝えられている。

そして、その後の消息は不明である。夢破れた青年の運命が悲しい。

橘神社

橘神社

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