千々石 温泉神社 お湯の温泉とは全く関係がないよ。九州の総鎮守 四面宮を祀る

千々石 温泉神社

千々石 温泉神社

千々石 温泉神社

千々石 温泉神社 拝殿

千々石 温泉神社 神殿

長崎県雲仙市千々石町己83番地

場所は千々石、橘神社の近くといったほうがわかりやすいだろう。橘神社は道路沿いにあるが、温泉神社は山側にある。

田んぼの中をとおり、小川に架かっている橋を渡ると右手にある。左側には広い駐車場があり、奥には桜の木が植えられている。

明治38年10月と彫られた大きな石の鳥居があり、その奥に二の鳥居。左右に石灯籠。二段の石段を登ると広い境内で、正面に古くて歴史の有りそうな社殿が建っている。

向拝所の左には願い石というものが飾られ、右には力石と説明がある丸い石が置かれている。

拝殿を覗くとお供えの品物が、たくさん並べられていて賑やかだ。

背面に回ると、立派な神殿が石垣の上に鎮座している。

それほど大きな神社ではないが、歴史のあることは伝わってくる。

川沿いの社

狛犬

千々石川

千々石川 かっぱ

右手には川が流れていて、川の方に行くと小さな社がある。小さな狛犬があるのだが、顔がマンガチックでニヤリとする。

川の下流の方に歩くと、川の中に渡れるように飛び石があり、更に行くと橋の近くの大岩に、河童が釣りをしている石像が置かれている。

川を上り神社の右手に出ると、石板にチヌ釣り石についてという説明があった。

色んなものがあるので、順に説明を書く。

願い石

千々石温泉神社 願い石

神社に願い石があるというのも変な話で、願いがあるなら、御神体にお願いすればと思うのだが。

願い石はいろんな神社に置かれているのも確かで、流行っているのかも知れない。

神社の参拝だが、実は自分の願いを祈るものではない。

神道の神様は、庶民を救う存在ではなく、存在自体が尊く人間は祀る立場にある。なので本当は報告がメインなのだ。

例えば、無事子供が生まれました。ありがとうございました・・こんな感じである。

仏教の場合は違う。仏は民衆を救うためにあるので、いっぱい祈って仏に身を委ねる事を勧めている。

だから、神社に願い石があるのは、実に合理的で、神に祈り仏に願う事が一度にできるという仕組みなのだ。(いいか悪いかは別の話)

力石

千々石温泉神社 力石

この石の伝説は「千々石町郷土誌」に「怪力無比『荒飛』」の話として書かれているという。

子供の頃から、力持ち。皆にすすめられ江戸に上がり相撲取りに成り、成績も上がったが、それを恐れ横綱が無法者を雇って殺そうとしたところ、横綱宅の女中が荒飛に知らせる。

荒飛は怒り悲しみ、こんなつまらない世界にいても仕様が無いと千々石に帰って百姓になったそうです。

ある日、曲がりの浜から石を一つ持ち帰りお四面さん(現温泉神社)の前に置き、青年たちに持ち上げさせたが、誰一人持ち上げる者はいなかった。

特別、説教じみた話ではないし実話かもと思う。

よく神社で、石を持ち上げるお祭りがあるが、相撲と神社は関係が深いので、この話もあるのかなと思う。

千々石川の社

境内から外れ、川のそばに小さな社があった。いろいろ調べたが、どうな神様を祀っているのかはわからなかった。

おそらく川関係だと思うのだが。

橋の近くの河童の石像

「チヌ釣り石」伝説がこの地にあり、それに基づいて平成16年に造られたよう。

その昔、この付近一帯は海辺でした。お四面様(温泉神社)が千々石村に鎮座されることになり、村人たちはお祝いの魚をこの辺りで釣りましたが、魚は一匹も釣れず困っていました。
そこへ突然年老いた一組の夫婦が現れ『鯛は釣れたな!』と声をかけながら大石に腰を据えて釣り始めました。村人たちが見守るなか、老夫婦は大きなチヌを次から次へと釣り上げながら、そして村人たちに『お四面様へのお供えと、お祝いの酒肴に使えよ』と言いながら手渡して山手の方へ去り、その後ろ姿は河童に似ていたという。以来この大石のことを村人たちは『チヌ釣り石』と呼ぶようになったという。

千々石川 かっぱ

チヌ釣り石

なるほど、川でチヌは釣れないので、昔はこのあたりまで海が来ていたのかもという解説もあった。

祭神

さて一番肝心な温泉神社の祭神についてである。

祭神は白日別命、建日向日豊久士比泥別命、建日別命、豊日別命

この4柱を四面宮という。

古事記の国生みの話の時、「筑紫島は身一つにして面が四つあり、面ごとに名がある」という記述がある。

つまり、九州は4つ国があるという事なのだが、「筑紫島は身一つにして面が四つあり」という記述は、九州ができた時にすでに、4分割していたという事になり、色んな事に含みを持たしている。

白日別命・・筑紫国 福岡
建日別命・・熊曽国 熊本
豊日別命・・豊国 大分
建日向日豊久士比泥別命・・肥国 佐賀、長崎

現代の地域に当てはめると、だいたいこんな感じである。

まず、肥国の神様だけ文字がたくさんある。泥という字があるので、有明海の干潟のことをいっていると思われる。

この四柱を四面宮といい、九州の総鎮守として雲仙に祀られている。

色んな説があるが、大和が出来上がる前に、九州には大きな勢力があり、その中心に雲仙があり、四面宮として九州の他の勢力に、睨みを利かしていたということになる。

その大きい勢力とは何かというと、ずばり「邪馬台国」だ。

この話をしだすと、止まらなくなるのでやめとくが、私は間違いないと思っている。

雲仙の四面宮を総本宮とし、島原半島や諫早地域には20社近くの四面宮があった。(現在はすべて神社名が変わっている)

一つの神社の祭神が、枝分かれしていくということは、その四面宮に関わる勢力がたくさんあったという事である。

温泉神社の解説で、雲仙市吾妻町の山田神、千々石町の千千石神、南島原市有家町の有江神、諫早市の伊佐早神を四面神としているものがある。

国産みのスケールと違い、小ぶりな造りの神としての解説になっているのは残念である。

九州の総鎮守の神が、島原の神様になってしまっているのだ。

まあ、雲仙が邪馬台国だと言えば、宮崎康平氏の『まぼろしの邪馬台国』になってしまうのだが、四面宮はそれほどスケールが大きく、古代史の中で大切な神様なのだ。

雲仙岳はかつて温泉と書いて「うんぜん」と読ませていたが、温泉神社については表記どおり「おんせんじんじゃ」と呼ばれている。

なので、島原の温泉神社は「おんせん」神社と読む。

だが、歴史から見たら、お湯に浸かる温泉とは全く関係ないのだ。

島原の観光行政は、誇大妄想的な古代の歴史を持つ温泉神社を、島原良いとこ一度はおいでー的な、温泉観光地にしたいと思っているフシがある。

島原の温泉神社は、お風呂の温泉とは関係がないと、再度ここで言っておく。

 

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