飯盛町川下 安徳神社 入水した幼き安徳天皇の石の祠が栄枯盛衰を表す

安徳神社

安徳神社

〒854-1124 長崎県諫早市飯盛町川下

田結川の港から、山に伸びている道を登る。細い道をバイクでのぼり続けると視界がひらけ、海の見える畑へ出る。

そこにある。言い方が雑だが、場所の目印がないのでしょうがない。

鳥居はあるけど、社殿はない。銀色に塗られた鉄製の鳥居があり、その奥に石垣の台があり、大きな平たい石を組み、祠のようにしていて、その中に石像がある。

石の灯籠もあり、道側には自然石の記念碑らしきものが2つ。

これだけである。

扁額には安徳神社と書かれている。

ネットで検索しても、安徳神社について何も探せなかった。

まあ、小さな祠の神社なのでしょうがないだろう。

私が行った日は晴天で、そこから見える橘湾の光景は素晴らしかった。

この風景だけは、立派な神社に引けをとらないだろうと感じる。

安徳神社 祭神

安徳神社 祭神

安徳天皇

神社の名前を見れば安徳天皇の神社だと察しができる。

安徳天皇(あんとくてんのう)は、第81代天皇で諱は言仁(ときひと)。歴代の天皇の中で最も短命だった天皇。戦乱で落命したことが記録されている唯一の天皇である。

その戦乱とは源氏平家の壇ノ浦の戦いである。

平家物語「先帝身投」の描写では、最期を覚悟して神璽と宝剣を身につけた母方祖母・二位尼(平時子)に抱き上げられた安徳天皇は、「尼ぜ、わたしをどこへ連れて行こうとするのか」と問いかける。

二位尼は涙をおさえて「君は前世の修行によって天子としてお生まれになりましたが、悪縁に引かれ、御運はもはや尽きてしまわれました。

この世は辛く厭わしいところですから、極楽浄土という結構なところにお連れ申すのです」と言い聞かせる。

天皇は小さな手を合わせ、二位尼は「波の下にも都がございます」と慰め、安徳天皇を抱いたまま壇ノ浦の急流に身を投じた。ウィキペディア

安徳天皇

この源氏と平家の争いには、様々な物語が含まれている。

天皇家の神器の宝剣はこの時失われたとする説がある(宝剣に関しては異説も多い)。

原型か形代かは別にして、朝廷側が宝剣の回収に失敗したのは確定している。その後、後鳥羽~土御門天皇~順徳天皇時に伊勢神宮から献上されたものを正式に宝剣とした。

なくなったのは8才。今で言えば小学2年生か。

あまりの哀れさに、実は生きているという説が多い。

対馬に逃げ延びて宗氏の祖となったとする説。

肥前国山田郷にて出家し、43歳で死去したとする説。

薩摩国硫黄島に逃れたとする説。

大隅国牛根麓にて13歳で崩御したとする説。硫黄島から移って来た安徳天皇が同地で没し、居世神社に祀られているという。

熊野神社が多いのは平家落人のせいか

熊野神社

長崎には、平家の落人伝説がある。

長崎市三川町 兵底の古墓、女の都 平家の女官、三ツ山町 石本神社 、伊王島 円通寺谷、五島宇久平 平家落人伝説・・・

まだまだあるだろう。

ここ飯盛には目立った平家伝説はない。

しかし、神社を巡っていていつも思うことがある。

それは諫早には熊野神社が多いことである。

熊野神社は熊野信仰の神社で、全国にあるのだが、諫早には特に多い気がする。あと大村も多い。

熊野信仰は平安時代の中期から鎌倉にかけてと伝えられていて、平安貴族からは熱狂的に支持されていた。

とすれば、諫早の飯盛の山に、隠された平家の落人伝説が多くあるのかも知れない。

飯盛町川下の安徳神社も、石で組んだ祠は素朴すぎて、その中にいるのは二位尼か、伝説の幼子安徳天皇か。

橘湾のよく見えるこの地は、安徳天皇を偲ぶ人たちが、人目を忍んで作った祠だろう。

この世の栄枯盛衰を、幼い安徳天皇の石の祠が表しているようにも思える。

こんな神社もあるのである。

安徳神社

安徳神社

 

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