西海町 香取神社 毘沙門天から経津主神へ

西海町 香取神社

〒851-3101 長崎県長崎市西海町1879

西海町 香取神社

香取神社

香取神社

琴海ニュータウンの近く。長崎明誠高等学校の南側の山手にある。

住所は西海町。西海(にしうみ)と読む。山に向かう舗装された道を進むと峠になっていて、登りきった所の右手に石段があり10段ほど登ると鳥居がある。

この鳥居は台風で壊れたようで、修復されたという事がニュースで記事になっている。

一の鳥居をくぐり、30段ほどの石段を登ると二の鳥居があり神社につく。

境内の左側が広くなっていて、社殿は大きくなく、民家に向拝の部分がついているだけの様に見える。

香取神社

香取神社

向拝所のしめ縄の上部に卍のマークがあり珍しく思う。

右手には流しが見える建物があり、その横に石に書かれた由来書が据えられていて「寛永14年(1637)に毘沙門天王社として建立。明治3年に香取神社になった」と書かれている。

拝殿はシンプルで、鴨居にいろんな額が掲げられている。

香取神社 流しがある

香取神社

香取神社 拝殿

香取神社 神殿

毘沙門天

毘沙門天像 | 上原美術館

仏教における天部の仏神で、持国天、増長天、広目天と共に四天王の一尊に数えられる武神であり、四天王では多聞天として表わされている。

福の神としての毘沙門天は中世を通じて恵比寿・大黒天にならぶ人気を誇るようになる。室町時代末期には日本独自の信仰として七福神の一尊とされ、江戸時代以降は特に勝負事に利益ありとして崇められる。ウィキペディア

長崎市内に毘沙門天を祀る祠が昭和町にあり、一度参拝したことがあるが、神社というより小さな小屋の中に姿がよくわからない石が祀られていただけだった。

昭和町 毘沙門神社 写真アートワークス

 

1637年建立とあるが、この時期はキリシタン禁教時代に本格的に入った時代で、長崎では沢山神社が建てられ始めた時期である。

この毘沙門天王社も、その中の一つだと思われる。

社殿右側の流しのついた建物が気になった。

ふつう神社には流しなどの設備は付いていない。あったとしても社務所内である。

ところが表に見える場所に、炊事場があるということは、この神社で寝泊まり出来るのだろう。

現在は土地が開け住宅地になっているが、江戸時代初期ならば山奥だった。

という事は、山伏などの修行僧がこの地にやってきて、寝泊まりをして修行をする場所だったのではないかと推測した。

山が多い地域には山伏が多く、長崎も山岳信仰の場所である。

山伏の信仰は、仏教以外にも様々な宗教が混じり合って、一定の教義がない。

ちょっと怪しいが、魅力的な信仰でもある。

魅力的な仏教のビジョアル

長崎も市内から離れた群部では、仏教の不動明王など見た目に強そうな仏を祀る神社も多い。

仏教の魅力的な所は、そのビジョアルである。

怖そうな仏像の姿は、それだけでパワーがありそうで、地域を守ってくれるスーパーパワーがあり、菩薩や観音様の優しい姿は、救いの手を述べてくれる慈悲があるように見える。

その点、神道はそっけない。祭神は基本、鏡だけである。

なので日本は古来より、神仏習合という信仰を違和感なく受け入れてきたのだ。

そして、この神社は明治政府の神仏分離という政策に従い、毘沙門天から、日本神話で大国主の国譲りの際に活躍する経津主神(フツヌシ)へと祭神を変更している。

経津主尊

ここの神社の向拝所の鴨居には卍のマークが残されている。

これが、毘沙門天王社だった証である。

明治政府の神仏分離の弊害は大きいが、この神社のように祭神が変わっても、地元の信仰は変わっていないようだ。

香取神社の経津主神(フツヌシ)も毘沙門天もパワーのある信仰である。

この地域を守ってくれれば、それでもいいのかも知れない。

香取神社

香取神社からの眺め

 

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