玖島城本丸跡 玖島稲荷神社

玖島稲荷神社

厄割石

場所は玖島城本丸跡にある大村神社の直ぐ側に有る。

入り口右側に、厄と朱の文字で岩が置かれていて、厄割石というのが置かれている。立て札には厄割一体200円と書かれている。

観光地になっている神社には、時折こんなゲームみたいな物が置かれている。

おみくじにお金を払うのは許容範囲だが、新ゲームはどうだろうか。目くじらを立てるほどでもないが、こんな綺麗に整備している神社には似つかわしくないような気がする。

玖島稲荷神社

玖島稲荷神社

稲荷の赤い鳥居はキレイな朱で塗られている。結構な数の鳥居が並び、それを抜けると立派な鳥居の有る本殿が鎮座している。

左の看板には由来が書かれている。

「玖嶋稲荷神社は、全国の稲荷神社の総本社、伏見稲荷大社より第16代大村領主純伊(すみこれ)公が、文明12年(1480年)、大村領の守護神として分霊を受けたことに始まります。この稲荷信仰は、歴代の領主継承され領民にも広く信仰されるようになりました。18代領主純忠(すみただ)公が、キリスト教信仰に転じたことから領内の寺社共々焼き討ち等の弾圧を受けましたが、19代領主(初代藩主)喜前(よしあき)公により守護神として復活し、幕末に至るまで歴代の藩主は勿論のこと武家、農民、商人の間まで信仰の輪は広まっていきました。明治維新後、歴代藩主を祭神とする常磐神社が、廃城となった玖島城跡に県社大村神社として移築された折、稲荷神社も同境内の北端に社殿を建設(明治17年・1884年)玖島稲荷神社として新たな信仰が始まりました。」

玖島稲荷神社

長文だが掲載した。

玖島稲荷神社

玖島稲荷神社 神殿

玖島稲荷神社 拝殿

玖島稲荷神社 境内

説明では本丸にこの神社が置かれ続けられていたのか、明治維新後、大村神社(常磐神社)がこの玖島城跡にやってきた時に、この神社もついてきたのかはっきりわからない。

以前はこの一帯には藩主の居館があったと言われているので、昔は常磐神社と同じ、池田山(現在の高速インターチェンジ付近)に祀られていたのだろう。

ここの神社は1884年(明治17年)玖島稲荷神社として新たに建設されたものだから、とてもキレイに仕上がっているのだ。

1480年に京都伏見稲荷大社から分霊を受けて以来と説明に書かれている。

また第16代大村領主純伊(すみこれ)公が、文明12年(1480年)、大村領の守護神として分霊を受けたことに始まりますとある。

1474年から1480年にかけて、大村純伊は有馬貴純によって大村から追放されている。

この事となにか繋がりが有るのだろうか。

詳しく書かれたHPがあったので掲載する。

(略)江戸時代大村藩が偽装した歴史によりますと、<「大村純伊」は文明6年(1474年)に島原の有馬氏に攻め込まれ、萱瀬の中岳の合戦で大敗し、萱瀬~郡岳~松原~早岐と逃れ、最後は唐津沖の加々良島(かからじま)に隠れた。>

大村純治と「大村純伊」は同一人物では
https://fukushige.info/ayumi/oomura-giso-history/07page.html

なるほど。

興味深いが、玖嶋稲荷神社と直接関係ないので、ここは割愛する。

玖島稲荷神社 鳥居

玖島稲荷神社 正面は大村神社

ただ、稲荷神社は食べ物の神で、江戸時代は商売の神として大流行している。

武家が、戦時中に稲荷神だけを祀るというのは辻褄が合わない気がするが、大村神社(常磐神社)と共に合祀されていたのなら理解できる。

それにしても年代が合わない気がするが、まあここはスルーする。

キレイな神社である。大村神社の参拝の折に訪れてみたはどうだろうか。

 

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