出雲 天満神社 昔の遊郭地域に祀られる
石橋電停から大浦の道を上り、少しして、出雲本通りに入り、大きなヘアピンカーブを過ぎた所の住宅地寄りにある。
住宅地への道を登っていると右側に石の鳥居が見える。大きい明神鳥居だ。
その鳥居をくぐり、少し上がると石段の右に出雲南公民館がある。
その先の石段を上がると境内に出る。特別手入れはされていないようだが、右側に大きな切り株があった。
更に石段を上ると社殿がある。
黄色い木板で作られた小柄な拝殿だ。しめ縄は少し大きめ。
ガラスの入った格子の拝殿の扉があり、ガラス越しに拝殿の中を見る。
きれいな板張りの中央奥に神棚がせり出している。
梅鉢の紋が入った垂れ幕の奥に、神棚があり、榊、酒、塩などのお供えがあり、神棚には二体神様が祀られている。
左は小さな仁王像で中央が菅原道真公の坐像があった。
社殿を回り込んでも神殿はなく、横から見ても四角の社殿だけだ。
拝殿左には、不明な石の祠がある。
神殿の奥から上の道に通じる石段があり、この神社は通り抜けられるようだ。
境内には狛犬や石の手水入れはあるのだが、撫牛は無いようである。
社殿は色も作りもいまいち。境内も手入れがない雑然さが漂う神社だった。
創建は1876(明治9)年、社殿を現在地に建立とある。
このあたりは、山の中腹の、近年開発が進んだ地域で、あまり昔の話がないようだ。
出雲町の町名
出雲町という町名が気になる。
この出雲町という町名の由来は不明だとある。
出雲と言えば島根県の出雲大社がすぐ思いつくのだが、それらしき神社はない。
深読みすれば、大浦の上部には日の出町という町名がある。出雲は雲が沸き立つという意味なので、対で付けたのかなと思った。
HPを探すと越中先生の話が載っていた。
「この界隈は出雲町(いずもまち)。昔の遊里です。ここは明治25年(1892)に浪ノ平地区から移転してきたもので、商人や外国人客で賑わった丸山などとは違って船の関係者が多かったそうです。最盛期には多くの遊廓が立ち並び、350人もの人達がいたと言われています。今は全く跡形も残っていませんね。」
なるほど、遊郭の街だったのである。
昭和初期の長崎市内には、「丸山遊郭」、「出雲町遊郭」、「戸町遊郭」、「稲佐遊郭」の4箇所があったという。
他のページには「坂を登りきったあたりには検番があった」という一文も見つけた。
検番とは、芸者と出先(待合・料理屋など)との連絡事務所。見番とも書く。吉原で女芸者の風俗取締りのために安永(あんえい)年間(1772~81)に創設された見番所を起源とする。
当たり前だが、娼婦以外に芸妓衆もいたのだ。
出雲、花街、芸妓というキーワードから頭に浮かぶのは出雲阿国(いずもの おくに)だ。
出雲 阿国は安土桃山時代、江戸時代前期の女性芸能者。ややこ踊りを基にしてかぶき踊りを創始したことで知られており、このかぶき踊りが様々な変遷を経て、現在の歌舞伎が出来上がったとされる。
出雲国杵築中村の里の鍛冶中村三右衛門の娘であり、出雲大社の巫女となり、文禄年間に出雲大社勧進のため諸国を巡回したところ評判となったとされている。
お国一座は京都での人気が衰えると江戸を含め諸国を巡業したが、 かぶき踊は遊女屋で取り入れられ(遊女歌舞伎)、当時各地の城下町に遊里が作られていたこともあり、わずか10年あまりで全国に広まった。 遊女歌舞伎は男装した遊女と遊女の猥雑な掛け合いに、お国一座にはなかった三味線による囃子が付いたもので、お客にとっては遊女の品定めの場であった。ウィキペディア
出雲阿国は芸能の始祖ともいわれる有名人だ。地方巡業で遊女歌舞伎として広まり、当然遊郭でも流行っていた。
遊郭の出雲阿国から、この出雲町の名前が付いたのではないだろうか。
妄想だが、あり得ると思う。
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