小浜町富津弁天 宗像神社 弁天宮がない弁天公園
雲仙へ行く道で愛野展望台を下った後、また猿場山裾を登って小浜へと行く道になる。この猿場山の橘湾側にコブのように突き出た海岸線がある。
小浜町富津地域だが、江戸時代中期までの昔は日比ケ浦といっていた。
1744年原因不明の大火事がおきて、八十余戸が焼けた。二十数年前にも大火があったので、住民たちは島原藩丁に村の名前を「富津」に変更する願いを出した。それが叶えられ、日比ケ浦は富津になっている。
この海岸線には宗像神社が等間隔で三つも存在している。
富津弁天 宗像神社はその中の一つで、一番小浜寄りの神社である。
宗像神社は岬の突き出た部分にあり、岬全体は富津弁天公園という。
海岸は防波堤で整備されていて、公園のある岬部分に行く道もまたコンクリートでキレイにしている。
弁天公園といっても遊具があるわけではなく、松林が広がっているだけで、そこに祠が複数祀られている。
入り口左側には小さな石の祠があり、祀られているのはお坊さんのようで、富津には弘法大師の伝説の井戸もあり、弘法大師さんかなと思う。
その先に大きめの看板があり、富津弁天公園と由来のようなものが書かれているが、具体的な内容は何も書かれていない。
その先には、白い鳥居のある祠と、お堂があった。
鳥居の扁額の文字が消えていて読めず、祠の中には赤い前掛けを付けさせられた人のような、岩のような物が祀られている。不明の祠だ。
右側は聖徳太子堂で、中には白磁の太子像が祀られていて、有名な陶工の作らしい。
なぜこの場所に聖徳太子の像があるのだろうか。此処もまた全く不明だ。
その先は松林で、岬の先端まで行くと、神社が建っている。
二つ建物があり、岬の先端側に鳥居があるので、回り込んで鳥居の扁額を読めば宗像神社と書かれている。
しっかりとした鳥居で、その先には小さいが黒板壁の拝殿があり、その中を見たが板張りだけでなにもない。
回り込んで神殿側を見ると、神殿側と拝殿が連結されている。
神殿の中を見ると中は拝殿のようで、御神体は神棚の奥に安置されているようだ。
という事は、前はこの神殿部だけで、今ある拝殿部分は後年作られて付け足されたようである。
海岸にある公園入口の園内地図の挿絵では、岬の先の方に弁天宮と書かれた神社が一つだけ書かれている。
そうするとこれが弁天宮かと思ったが、此処は宗像神社である。
そうするともう一つの石の祠が弁天宮なのだろうか。
こちらは二つの祠を合わせたようで、入口部分には大きい四角い石板が敷かれている。
手前には鳥居があったような土台だけがあり、私が訪れた時には鳥居がなかった。
ネットで調べると、昔は此処に赤い鳥居があり、「じゅごさん」とひらがなで書かれた扁額が付いている写真があった。
「じゅごさん」とは「竜宮さん」という意味のようだ。
祠は二部屋に分かれていて、左には観音様のような仏像が祀られている。
右の部屋には小さい石の祠の中に縦長の石が祀られている。
これが弁天宮なのだろうか。
祠の右脇に「○大漁供○」と書かれた石柱がある。昔の字なので読めない。
富津の歴史を読めば、イワシ漁、鰡(ぼら)漁が盛んだったらしい。文字の感じから鰡(ぼら)漁の事を祈願した石碑のようだ。
宗像神社と竜宮
うーん。微妙だ。
ここの宗像神社の祭神は、多紀理毘賣命タギリビメノミコト、狭依毘賣命サヨリビメノミコト、多岐津毘賣命タギツビメノミコトと書かれている。
これは宗像三女神だ。
一般には「田心姫神(タゴリヒメ)」、中津宮の「湍津姫神(タギツヒメ)」、辺津宮の「市杵島姫神(イチキシマヒメ)」である。
名前が違うのは古事記と、日本書紀の違いで、多岐都比売命(古事記)が市杵島姫神(日本書紀)のことである。
この市杵島姫神は、よく弁天様と同一とされている。
昔は弁天様を祀っていた神社が、明治の神仏分離で弁天様の代わりに市杵島姫神を祀っているところが多い。
なので宗像神社が弁天宮となってしまったのかと思うが、これははっきり宗像神社と書かれているので違うと思う。
それなら、小さい祠の竜宮さんだが、竜宮と言えば乙姫様だが、乙姫様はふつう豊玉姫とされている。
富士五湖の鵜の島には、豊玉姫が弁天様として祀られている例があるが、珍しいと思う。
乙姫様も弁天様も海の神様となっているが、乙姫は日本で、弁天はインド出身だ。
同じと言い切るには、やはり無理がある。
さて、どうなっているんだろうか。
猿葉山裾の海岸に、等間隔で祀られている三つの宗像神社と、弁天宮が不明な富津弁天の宗像神社。
なにか関係があるのだろうか。
すべて海絡みなのだが、宗像神社は福岡の有名な神社で、その神社の末社があるということは、複雑な意味さえ考えられる。
古代宗像一族とのつながりが、この地にあったのか。それとも竜宮伝説がこの地にあったのか
小浜町の歴史
小浜地方が権力者の支配下に置かれたのが、戦国時代前期の有馬氏の当主で有馬貴純の頃からと言われている。
それまでは党首がなく、群雄割拠の地域だとある。
神社というのは、その地域の有力者の影響を受ける。海沿いに三つも宗像神社があるのは、宗像神を信仰する一族がこの地域を支配していたからかもという推理ができる。
宗像族とは、玄界灘を行き来して大陸と交流し、古代、沖ノ島で国家祭祀を行った海人族の事である。
地方豪族でありながら中央政権に重用された海の民で、日本中にその名は知られているが、九州には当然宗像神をまつる地域は多い。
諫早の小野地区にも古代からあると言われている宗像神社が存在する。
古代、宗像一族が橘湾を支配していたという推理は、それほど突拍子のないものではないし、いろんな事実が裏付けとしてある。
それともう一つの可能性だが、これらの宗像神社は、すべて弁天を祀っていた神社で、明治になって宗像神社に改名したという事も考えられる。
この富津弁天 宗像神社もその一つかなとも思う。
そうだとすれば、宗像一族は夢想の世界になるし、ただの民間信仰の可能性も有る。
富津近くには、四面宮の温泉神社も多く、こちらの勢力のほうが強かったかもしれない。
今はまだ私の頭の中では整理ができていないので、結論らしきものを出すには、もう少し時間がかかると自分でも思っている。
ただ富津弁天公園は松林も見事だし、先端に行けば奇岩の宝庫で釣りのメッカになっていると聞く。
いい場所なのは間違いない。