高来町 善神さん古墳 in湯江神社
湯江神社について書いていたが、この神社の一の鳥居の左側に、善神さん古墳というのがある。
最初は一緒に書いていたが、結構ボリュームがあるので、湯江神社と分けて書くことにする。
場所は諫早市高来町東平原172-1で、目の前に大きな道路が走り、湯江小学校が目の前にある。
入り口には茶色に白文字で大きな立て看板が設置されているので、すぐわかる。
石段があり、そこを登ると目の前に岩に囲まれた古墳がある。
入口から中を覗けば、中央後ろにやや大きいお釈迦様の像があり、その前に20体ほどの仏像が置かれていて、最初はぎょっとする。
この仏様は、後年人が祀ったので、この古墳を善神さんと呼んだようだ。
善神さんという名前だが、仏教に十六尊の大般若経を守るとされる護法善神のことを十六善神(じゅうろくぜんしん)と呼ぶ。これらの名前から連想して付けられたと思う。
詳しい解説がHPに載っていたので抜粋する。
湯江神社境内の傾斜地にあり、古くは土盛りがあって円墳の形になっていたと考えられます。しかし、現在では玄室がむき出しになり、石室の上外部はコンクリートで固め瓦葺となっています。横穴式石室入口の羨道部は取り去られ袖石のみが残っています。
玄室は内部で奥行2.3m、幅2.2mのほぼ方形で、高さは約2.3mです。室内には後世の人により地蔵尊など石仏16体が祀られています。
玄室正面の一枚岩には一面に線刻文様が施してあり、斜格子文様を基本としているほか、左手に人物、中央に舟、その下に動物らしきものが描かれています。また羨道から玄室に入る天井石にも同様の格子文が描かれています。被葬者はおそらく当地方を治めていた首長クラスの人物と思われます。高来町にはこのほか、古墳として築かれていたと考えられる巨石が泉地区集会所横に置かれています。この大石の表面には、二等辺三角形の底辺のない矢 じりの形と思われる幾何学的な文様が数多く線刻されています。また小江上田井原にも古墳があったといわれていますが定かではありません。諫早市公式ホームページ
古墳入り口には説明板があったが、そこにはいつ作られたかは書いておらず、古墳が4世紀くらいから日本で作られていて有明海沿岸にも多くあると書かれている。
肝心の情報が書いておらず、ありきたりな説明で前半が終わっていて、誰が書いたのかと思ったら、諫早市教育委員会と高来町文化協会の名前が入っている。市の指定文化財の説明を各地で読むが、的を得て参考になる文章を見たことがない。
看板を読むと、4世紀に作られたと間違えそうだが、古墳マップというページには6世紀後半~7世紀頃の築造と書いていた。こちらが正しい。この時代には長戸、丸尾、竹崎古墳なども作られていたとある。
高来町郷土誌
有名な話に、景行天皇が熊本の玉名から島原を見て、大野宿禰に調べてこいといい、その結果、雲仙には高来津座(たかくつくら)という国津神がいた、という話がある。
これが高来郡の地名の由来とされている。
一つ驚いたのが高来町郷土史には「高来津座(たかくつくら)は朝鮮(高麗)から飛んできた神」と書いてある。
ふーん。何処に出典があるのだろうか。
もう少し突っ込めば、朝鮮の高麗は918年にできた国で、景行天皇の時代の話と大きく食い違う。
実を言えば、私も8年くらい前、松本清張氏説の「高麗」を「高来」と書きこれを「たかき」と読み変え「高木」と書いたという話に驚いて、いろいろ書いた覚えがある。
ただ、やはりこの説は、一つの説にすぎないのだ。自説を述べる本やブログならいいと思うが、公的な郷土史なので、やはり注意がほしい。
それ以外にも、おやっと思う箇所が幾つもある。歴史には、いろんな解釈が存在する。やはり郷土史なので、できれば出典や他説の存在を書いていて欲しいものだ。
高来津座(たかくつくら)は雲仙の話だが、高来町には神津倉という地名もある。一般的には津座とは、海岸や崖、港に位置する海の土着神(豪族)のようである。
善神さん古墳は、昔かなり有明海の海岸線が迫っていた場所にあった。
とすれば古墳の主は、海の民一族の豪族の首長だった可能性が高い。