高来 河上(川上)神社 佐賀与止日女神社との深いつながり

長崎県諫早市高来町汲水388 河上神社

河上神社

JR湯江駅が一番近い駅。境川の中流付近で、裏手がとどろき体育館で、一般道脇に一の鳥居がある。地図などでは川上神社となっているが、成り立ちを考えれば河上神社が正解である。

河上神社

立派な一の鳥居の柱には昭和の文字が入っている。細かい砂利道が、長い参道に敷かれ、左右は背の高い木々が生い茂っていて、時折巨木が混じっている。

河上神社 参道

河上神社

河上神社

河上神社 境内入り口

河上神社 四の鳥居

河上神社 手水舎

二の鳥居、三の鳥居にも川上神社と書かれている。

これほど参道がきれいで長い神社は長崎市内にはない。おそらく100メートル以上あるだろう。

境内の入り口に四の鳥居があり、ここには河上神社と書かれている。

左手には立派な手水舎があり、水辺にはコロナのせいか、カラーボールが沢山浮かべている。

河上神社 拝殿

河上神社

河上神社 拝殿

広い境内の正面に立派な拝殿が建てられている。

従来の社殿は、往古の法をかたちどる古風の瓦葺神殿・社殿と茅葺の拝殿が、廊下で通じる森厳な造営であったが、昭和58年、五千余万円をかけて鉄筋コンクリート、銅板葺の神殿・拝殿が竣工し、盛大な落成式においては、宇良地区民の浮立奉納などが行われた。郷土史より

なるほど、かなりの改築だったようだ。なので拝殿、神殿も重厚で綺麗にできている。

神殿の横に、八坂神社がある。そこに幟が立てられていて、疫病封じと書かれていた。これはコロナのことだろう。

現在でも、最上級の立派な神社だと思うが、昔はもっと立派な鎮守の森と社殿を持っていたと記されている。

河上神社 神殿

神殿の横に八坂神社

八坂神社

由来

ここに神社が建てられた由来が書かれている。

汲水名の頭、境川から宇良田井原の灌漑水と、汲水・ 馬場・溝口・泉・金崎名への用水をひく分岐点の井手がある場所に鎮座されている。

大昔の住民が、農耕地を水の便のよい川べりに求めて移住し、しだいに集落となり、先祖代々氏神として奉戴していた豊玉姫を神殿に祀ったのが起源で、寛平年間(890年頃平安時代)のことといわれる。

890年とはかなり古い。

だが大昔の高来地区に、これだけの大規模な神社を建てる理由があったのかが疑問である。

そして、ここの住民の先祖代々氏神としていたのが豊玉姫というのも納得できない。

郷土史には「豊玉姫命は神功皇后の妹で、彦火火出見尊(山幸彦)の妃となった方」と書かれている。

確かに「神功皇后の弟に息長日子王、妹に虚空津比売(そらつひめのみこと)、豊姫」がいると書かれている。ウィキペディア

一般的には豊玉姫ではなく豊姫である。他の地域でも豊姫と豊玉姫を混同している所も実はある。

ただ豊玉姫を山幸彦の妃ということにすれば、神功皇后はその姉ということになる。

山幸彦の父親は、天孫降臨した瓊瓊杵尊なので、神功皇后はすごい古代の話の中の人物になり、三韓征伐をした話と食い違ってくるのだ。

なので「豊玉姫命は神功皇后の妹で、彦火火出見尊(山幸彦)の妃となった方」という書き方は、かなりおかしい。

川上(河上)神社 与止日女神社 淀姫神社

現在の長崎市内、諫早、西海地区、島原には、川上神社と名がつく神社は殆どない。

だが、佐世保、佐賀、福岡にはかなりたくさんある。

それもそのはずで、佐賀市大和町の河上神社(与止日女神社 淀姫神社)は平安後期以来肥前国一ノ宮とされているからである。一ノ宮というのは格式が一番高いということである。

河上神社(与止日女神社) 佐賀の歴史文化お宝帳

高来の川上神社も、その末社になるので、本来なら、かなり格式が高いはずだ。

あの立派な社殿も、広大な鎮守の森も川上(河上)神社だからなのである。

郷土史にも、天正年間には、佐賀須古城主、龍造寺隆信が当地に下向したとき、参拝して神占を命じ、手槍を奉納したと伝られている。

更に、慶長年間(1596~1614) には領主・諫早公から御供田として、田一反三畝歩(汲水名島の上)と、同じく七畝七歩(溝口名西の前)の寄進があったという。

高来の川上神社に、龍造寺家、諫早家から寄進があった事自体異例である。

竹崎街道に建立されていた皇太神宮の石祉を河上神社に置いたことも、特別な神社だからである。

佐賀の河上神社の祭神は与止日女神(淀姫)で、豊姫とも言われている。

河上神社文書には
一、当社の祭神は与止日女大明神である。神功皇后の御妹で、三韓征伐の昔、旱珠・満珠の両顆を以て異賊を征伐された後、今この地におとどまりになった。
二、当社の創建は、欽明天皇二十五年(564)甲申歳である。
三、当社の祭礼を五月と八月の二回にして、流鏑馬の行事祭礼を行う。郡別割当は次の通りである。
 五月=佐嘉郡、三養基郡、高来郡(長崎県南北高来郡)
 八月=神埼郡、小城郡、松浦郡(東西松浦、長崎県南北松浦)藤津郡、彼杵郡(長崎県東西彼杵)

等々が書かれていて、その規模の大きさも、一之宮神社らしい。

そして高来郡も流鏑馬の行事祭礼を行うことになっている。

まあその当時の高来郡は地域も広く、高来町はその中の一つの地域に過ぎないのだが、高来町と名前が残っていることには、やはり意味があるはずである。

それが、河上神社があるせいだと、私は思っている。

高来町の隣の小長井町には淀姫神社がある。豊姫(淀姫)信仰はこの地まで、根を張っていたのだ。

小長井町 淀姫神社

邪馬台国

河上神社祭神の与止日女神(淀姫、豊姫)は、邪馬台国の卑弥呼の後継者、トヨであるという説がかなりある。

卑弥呼が天照大神という説や、卑弥呼が神功皇后だという説もおおい。

卑弥呼の後継者は、トヨ
神功皇后の妹は、トヨ姫
伊勢神宮の外宮には、トヨウケの大神

妄想

邪馬台国の後継者トヨは、九州北西部に邪馬台国の拠点を移す。そして邪馬台国を存続させていた。

大和政権は、九州を制圧するため、天皇やヤマトタケル達を九州に送り込む。

邪馬台国のトヨの国は、抵抗する。

しかし、大和は、トヨの支配下地域の巫女(首長)たちを「ツチグモ」という名前で呼び、成敗を続け滅ぼした。

現在の淀姫神社の分布

こんな、つながりも又、古代の九州の姿を大胆に推理させる状況証拠になっている。

高来町郷土史には、佐賀の一宮の河上神社のことには全く触れていない。

なぜだろうか。

私が知っていくらいなので、高来町の歴史を知っている人なら、十分承知しているはずだ。雲仙の高来津座を朝鮮の高麗の神様だと書いている人たちなので、河上神社が邪馬台国に絡んでいることもわかっているはずなのだと思う。

なぜ書かないのか。私はその事のほうが不思議である。

川上神社の立派な社殿を見れば、ただ事ではないことに普通の人は気づくと思う。

そんな神社なのである。

河上神社

河上神社

 

 

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