小長井 市杵島神社 諫早家の床の間にあった辨天さんを祀る

諫早市小長井町大搦名38番地 市杵島神社

小長井 市杵島神社

市杵島神社

市杵島神社 門

JR長里駅からが一番近い。国道207号線で水の浦というバス停の先の山に登る道を進む。そうすれば太良岳レインボー道路に合流するので、右手(東方面)に行き、その道の脇道を下る。

右手は畑が広がり、左手には敷地の広い建物がある。神社はやや高く積まれた石垣の上にあり、石段を上ると、鳥居ではなく、上の柱の両側がくるりとした曲線を持つ、唐風の門である。

扁額の部分には、梵字が書かれている。後で調べたら種子(しゅじ)といい密教において、仏尊を象徴する一音節の呪文(真言)とあった。この梵字がどんな仏様を現しているのか調べたが、わからなかった。

これだけでも、ここが神社でないことはよく分かる。

翁塚

市杵島神社

市杵島神社

市杵島神社 一の鳥居

市杵島神社

弘法大師堂

その門の右手には自然石が置かれ、翁塚と案内の杭に書かれている。

境内は広く、門から一直線に細い石が敷かれ、社殿の前にしめ縄が張られた一の鳥居がある。

拝殿の右横には、大きめの祠があり、青い網がかけられ、その奥には金色の弘法大師が鎮座している。

左手には亀のような生き物の上に貝のような物が置かれている石造りのオブジェがあった。

贔屓(ひき・ひいき)

他の人のHPに、これは「贔屓(ひき・ひいき)」というと書いてあった。調べると「中国における伝説上の生物。石碑の台になっているのは亀趺(きふ)と言う」とあった。

ヒイキというのは自分の気に入った者に対して肩入れし、優遇することである。贔屓をしてくれる人のことを贔屓筋(ひいきすじ)などと呼んだ。 語源は中国の伝説上の生物である贔屓。ウィキペディア

語源についてはなんにも書いていないが、この亀が重きを負うことを好むので、好んで貢いだり、肩入れすることをヒイキと言ったようだ。

なるほど、勉強になった。

ウィキペディアにも、このオブジェを置いている場所のすべてが中国で、日本で設置されている写真はなかった。なので日本の神社にあるのは、珍しいのだろう。

市杵島神社 拝殿

市杵島神社 拝殿

馬頭観音

馬頭観音

市杵島神社 神殿

拝殿は瓦屋根のこじんまりとした作りで、拝殿を覗くと板張りのシンプルな作り。

神殿を見ようと、拝殿の左に回り込むと、大きい社があった。

案内の杭には馬頭観音と書かれている。

中を覗くと、デザインされた木の枠の中に、金と朱塗りの立派な仏壇が安置されている。扉は閉まっているが、その扉の門には諫早家の上り藤が彫られている。

豪華すぎる仏壇だ。

沿革

寛文延宝時代に諫早内匠真情及藤原茂真の信仰により長里大久保に本社を創立した。文久元年旧領主諫早 家より幣帛を供進せられ遠近の衆庶尊信するものが増加した。明治八年に神殿、拝殿を再建し安永六年、修繕を加え更に神殿、拝殿共に改築して稀に見る神殿となった。郷土史より

延宝は1673年から1681年までの期間を指す。江戸時代初期なので、結構古い創建だ。

神社の前を横切る竹崎街道は諫早藩主もしばしば通られた。ある日の休憩中藩主の愛馬が急死した。藩主はいたくこれをあわれみここに葬りその霊を弔うために堂を建て、馬頭観音を祭られた。藩主はこの境内に社殿を新築して諫早家の床の間にあった辨天さんをここに移した。郷土史より

なるほど。ここの祭神の市杵島姫の大元は諫早家の床の間にあった辨天さんなのである。

辨天さんは、明治の神仏分離政策の時、多くの神社で市杵島姫となっている。

ここもそうだったのだろう。

市杵島神社

市杵島神社

形だけ神社だが、中身は唐風の珍しい仏寺だと言っても良い。

辨天さんを祀る前は、どんな仏様を祀っていたのか知りたい気もする。

しかし市杵島姫も、色んな場所で弁天の代役を請け負って、内心、顔をしかめているような気がする。

 

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