高来 神津倉権現神社 本当は金泉寺別院・医王寺

諫早市高来町神津倉468番地付近 神津倉権現神社

神津倉

神津倉 お堂

神津倉 お堂

国道207号線で高来町に行き、水ノ浦のバス停を過ぎて、十字路を左に、山の方向に進む。かなり登ると、多良岳レインボーロードと合流するので、左方向へ進む。

境川の橋を過ぎると轟アイスの看板が見え、その店の前が一の鳥居になる。

一の鳥居の右側に、古いお堂がある。

お堂の中は仏壇があり、その上には仏様が赤い前掛けを付けられて、4体安置されている。外には石の祠もある。

神津倉権現神社

神津倉権現神社 神津倉大明神

神津倉権現神社

神津倉権現神社 割拝殿形式

神津倉権現神社 拝殿

一の鳥居に戻り、五段ほどの石段を上ると、左右に石灯籠があり、大きな石の鳥居がある。

神額には神津倉大権現と書かれている。その下をくぐり平たい道を少し進むと、石段が10段ほどあり、上ると大きな拝殿がある。

この拝殿が一般的な形式ではなく、参道が拝殿の中を通っている形である。

驚いた。この形式は見たことがなかったからだ。

後で調べると、割拝殿形式というらしい。

平安末期ころに現れた拝殿の形式。横長の平面の中央を土間(馬道・めのどう)をとって通路としたもの
大阪文化財ナビより

大阪に桜井神社というのがあり、そこの拝殿が割拝殿形式になっていて、国宝に指定されている。

社伝によると、桜井神社は朝鮮半島の百済から渡来してきた桜井宿禰(さくらいすくね)の一族が、祖先を祀った事に始まるとされる。(中略)桜井神社拝殿の建造年は定かではないが、建築技法は鎌倉時代のものを示しており、その頃の建立であると考えられている。
同じく鎌倉時代に建てられた の拝殿と共に、割拝殿としては現存最古級の遺構だ。日本の文化財HPより

桜井神社 割拝殿

国宝の拝殿の写真と見比べると、この神津倉権現神社の割拝殿は違う部分が多い。

だが、珍しい形式なのは間違いない。

瓦屋根で、石段が付いている。中は板張りで、天井もあり、左右はオープンになっている。

土足で神殿まで行けるようだが、なぜこんな形式なのかが不明で、国宝の割拝殿もまた、不明とされている。

神津倉権現神社 神殿

神津倉権現神社 神殿

神津倉権現神社 神殿

神津倉権現神社 神殿

その割拝殿の中を通ると、勾配のある石段の先に神殿が見える。

小ぶりな神殿だ。この神殿もまた特殊だ。

開け放ちの入口の前に、紫の垂れ幕がかかり、上には大きな注連縄が貼られている。

その奥に大きな屋根の梁が赤と緑に塗られた神殿があり、その中は金色の布が箱を様なものを覆っている用に見える祭神が安置されている。

これは神道の神社ではなく、仏式の仏殿である。

一の鳥居の神額には神津倉大権現と書かれているが、権現というのは仏が神の姿になって現れているという、本地垂迹説の神様である。

なので、大本は仏様ということになる。

神津倉大権現は神社一覧には記載されていない。

この神津倉という場所には金泉寺というお寺がある。有名なお寺である。

このお寺が、神津倉大権現と関わっていたのだ。

金泉寺 諫早観光物産コンベンション協会

天正二年(1574)には、切支丹のため焼打ちにあい、舞恵法印は三本尊を背負って難を避け、三年間岩穴の中にとどまった。 再興の兆がないので、神津倉に金泉寺別院(医王寺)を建て、ここに聖体を安置した。高来町郷土史より

医王寺

つまり、金泉寺別院(医王寺)が神津倉大権現なのである。

医王寺の沿革が郷土誌に載っているので、書き写す。

所在地 湯江神津倉名
寺号宗派 金泉寺別院 高野山真言宗
本尊 釈迦、弥陀、観音、不動明王

由緒沿革 天正二年(1574)、切支丹の襲撃により 金泉寺は焼き払われたが、再建のめどはつかないながら も、世の中がやや静まってきたので、三年後に、舜恵法印は本尊を背負って神津倉に下って来た。

老樹が生い茂る山のふところ、前には境川の清流があ り、清澄な水が湧き出る静寂の地を、神仏の座にふさわしい所として選び、庵をむすんで、権現の本体である釈 迦・弥陀・観音の三尊と、金泉寺の本尊である不動明王を祀って金泉寺別院とし、金泉寺が再興されるまでの七八年間をここに安置した。医王寺と称する。

最初の部分は金泉寺と同じで、切支丹の焼き討ちで逃げ、三年後、この場所に降りてきて、この寺を建てたというわけだ。

道理で、鳥居だけが神社風で、後はお寺だったのだ。

神津倉

神津倉についても郷土誌に記述があった。

神津倉 境川大橋

境川

コウは山の斜面、ツは山・ 岡、クラは山の険峻な所、又は岩石の畳したもの。「神」を「甲」と書く地方もあり、カツは居住地。神津倉は住居のある山のこと。

この解説がよくわからない。「神」を「甲」と書く地方とは何処なんだろうか。ちなみに甲津倉という地名で検索しても、何もヒットしなかった。

津は一般的な意味では、①つ。みなと。渡し場。ふなつき場。「津津浦浦」 ②しみ出る。わき出る。「津津」 ③体から出る液体。しる。つば・あせ・なみだなど。で、山という意味は聞いたことがない。

まあ、いろんな解釈があるのだろうと、スルーした。

神津倉 境川

高来町で神津倉という文字を見れば、古代雲仙にいたと言われる高来津座(たかくつくら)という国津神を思い出す人は多いだろう。

通常、座と書いても「ザ」としか読まないが、古神道における岩に対する信仰のことや岩そのものを磐座(いわくら、磐倉/岩倉)と読む。

なので、神津倉と書けば、神が集う港という意味になる。

ここは山の中なのだが、おおきな境川がすぐ傍を流れているので、ここに船着き場があったのかもしれない。

郷土誌にも、神津倉を「清澄な水が湧き出る静寂の地」と書いている。

なので神津倉は、神が集う水が湧き出る地で問題ないと思う。

金泉寺は境川の上流で、轟の滝の更に奥の、山深い地にある。別名太良嶽三社大観現という真言宗 のお寺だ。

そこの話が面白い

金泉寺 由緒沿革

太良嶽三社大権現は、大昔、印度の摩蝎陀(まかだ)国王が、神通自在の大聖者になり、海を渡って扶桑国(やまとのくにへ)飛来し、肥前の国の梅豆羅(松浦)に着いた。

ここからはるか東の高峰を望み、当地方まで来て、仏の辻で休んだが、この山を落ちついて住む所でないとして、更に、多良岳へと移った。

権現は、山上の石の上で三摩耶(諸々の大勢の人を救い、また、成仏できるようにと祈願をし、仏門の法を修める)を修業した。その石を坐禅石と呼び、今に伝えられている。

奈良時代の初め、諸国を巡っていた行基菩薩は、この跡をたずねて山上にとどまり、釈迦・弥陀・観音の三尊を安置して、三者大権現の本体とした。

降って平安時代初め、弘法大師は、山頂より少し下が った西側のうっそうと樹が茂り清水がこんこんとわく所に、金泉寺を建立し、一刀三礼の不動明王を刻んで本尊とし、肥州の真言宗の道場とした。山麓の神社・寺院は、みなその配下におさめ、僧坊3000余があったといわれる。郷土誌より

印度の摩蝎陀(まかだ)国王が海を渡って扶桑国(やまとのくにへ)飛来し、肥前の国の梅豆羅(松浦)に着いた。

このくだりが面白い。摩蝎陀(まかだ)とは古代インドの国で、実存している。

ネットで調べても日本語の解説はなく、中国語の解説を翻訳したものを下記に記す。

古代中央インドの16の大国のひとつであり、後に4つの主要な大国となり、最終的にインド全体を統一しました。拡張前の場所は、ガンジス平野の東、ビハール州南部でした。マガダ王国は、ブリハドラタ、プラディオタ(紀元前682?544年)、ハリヤナ王朝(紀元前544?413年)、シャシュナーガ朝(シャイシュナガ)(紀元前413?345年)が統治していました。(略)

仏教の歴史において、ラジャシャと華氏の集まりはすべてマガダにあったので、マガダはインドの重要な仏教の聖地の1つです。唐王朝の鎮関時代、著名な僧侶玄奘は仏典を集めるためにインドに行きました。

玄奘(げんじょう)とは三蔵法師のことで、西遊記の世界である。

仏教は、インドから、中国に伝わり、そして日本に500年頃に伝わったとされる。

しかし弘法大師は、803年に最澄とともに唐に渡り、直接仏教を会得し日本に持ち帰った。

真言宗の始まりだ。

三社大権現(だいごんげん)とは釈迦・弥陀・観音の事をいう。

大権現とあるので、この仏様が、日本の神の姿になって祀られているという意味になる。

これ以上は難しすぎて、私には理解できない部分があるので、金泉寺に関してはこれだけの知識しかない。

まあ、日本の歴史で言えば、印度の摩蝎陀(まかだ)国王は弥生時代に多良岳にやってきたということになる。

それだけの歴史のある寺が、切支丹の焼き討ちにあうというのも、無残な話である。

切支丹側からすれば、悪魔の宗教を伝導する寺なので破壊したということだと思うが、この破壊活動が、長崎や大村の信仰の歴史を分断させたことは、大きな罪だと思う。

神津倉権現神社

高来 神津倉権現神社

ということで、高来町の神津倉権現神社は、金泉寺の別院で医王寺だという事がわかった。

グーグルマップには神社とされているが、仏寺という表記でいいと思われる。

神社の定義で言えば、鳥居があれば即神社なのだが、日本の神仏習合の姿は、そう簡単に神と仏を分けることはしなかった。

しかし、明治に入ってからの神仏分離で、強引に神と仏を分けてしまったので、いろんな歪が神社におきたことも事実である。

又、神仏分離は、廃仏毀釈という仏教排斥運動も起こしてしまった。

これは、仏教が江戸幕府と結びついて、権力と経済力を手に入れ、民衆から離れてしまったとする解説も有る。

もしかすると、神津倉権現神社は、最初鳥居などなかったもしれず、仏教排斥の風当たりを緩めるために鳥居を作ったのかもしれないと思う。

割拝殿形式という珍しい拝殿を持つ謎は解明されなかったが、信仰の歴史の中で重要な神社であることは間違いないと思う。

 

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