小長井 藤原神社 祭神は藤原氏の祖先だが・・
諫早から有明海側の207号線をはしり、山崎病院の信号を左の山側に登る。山茶花高原へ行く県道195号線を走り、大きなカーブの右側に神社はある。
神社の横には小川原浦名公民館が建てられている。
車で直接境内に入れるのだが、その右手の一の鳥居から参拝した。
石段の上にある鳥居には藤原大明神という扁額がかかっている。
境内は砂利で舗装されていて、広い境内の中央に土俵があり、緑色のビニールシートで覆われていた。
神社と並んでたっている小川原浦名公民館の左手には、こんもりとしたツツジの庭木が植えられていて、その中に、石組みの上に自然石の石があり、更にその上に縦長円形の石の浮き彫り像が彫られたオブジェが置かれている。
両手で水桶の柄を持ち、遠くを眺めている昔の女性らしき姿だ。周りを見ても何の説明も見つけられなかった。
その左手に、丈が低い横長の拝殿の藤原神社がある。
入口の左右に狛犬と石灯籠が配置されている。拝殿の入り口上にはしめ縄のみが張られ、入り口は格子にガラス戸の引き戸が入り口。
ガラス戸から拝殿を見ると、板張りに神殿入り口に木の格子が置かれ、鴨居には上り藤の諫早家の紋が染められた垂れ幕がかけられ、右には奉祝令和の幟、左手には家内安全、社内安全と書かれた神社の幟が壁に貼られている。
拝殿の中央上に鈴の紐が垂れていて、賽銭箱があり、左右の隅には椅子とテーブルが片付けられている。
外を出て神殿を見ると、板張りで拝殿より新しい。近年改築したようだ。
祭神は天児屋根命(あめのこやねのみこと)。
『古事記』には岩戸隠れの際、岩戸の前で祝詞を唱え、天照大御神が岩戸を少し開いたときに布刀玉命とともに鏡を差し出した。天孫降臨の際邇邇芸命に随伴し、中臣連の祖となったとある。
中臣氏の祖神であることから、中臣鎌足を祖とする藤原氏の氏神として信仰された他、藤原氏の繁栄にあやかって現在では出世の神としても信仰されている。ウィキペディア
なるほど。藤原氏の氏神を祀っている神社だ。
祭神 由緒
正和五年十二月一日の創立で拝殿を安政五年九月再建し、正殿を明治十九年二月再建した。
祭典例祭は毎年十二月一日で氏子は皆休業して敬意を表している。その他祚年祭、新嘗祭田植祭などを執行する。 社殿は神殿と拝殿がある。 氏子小川原浦名地区民。
小川原浦名の中央、南川の県道沿いに建立されている藤原神社に、築紫の歌人中島哀浪氏が、昭和十九年参拝された。境内から有明海を見下して、磯の木にひよどりの鳴く日和なり 凪ぎ渡りたる青浪の色 と、椎の古木を背にして歌った。その椎の木の奥庭、境内の一角に昭和四十年公民館を新築移転したことは別記のとおりである。尚神社の境内は部落民の出夫によって広く整地され子供の遊び場になっている。郷土誌より
とすれば、神社の右横の石のレリーフは、歌人中島哀浪氏か、歌のイメージを表現したものなのかもしれない。
創立
創立が正和(しょうわ)五年とあり、西暦で言えば1316年で鎌倉幕府の時代だ。
藤原氏が栄華を極めて「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」という歌があるが、時代は平安時代で1316年より300年ほど前の時代だ。
鎌倉時代に藤原氏の氏神を何故祀ったのだろうか。
藤原氏
小長井の横の高来町は大村領だった。
その大村氏だが系図や史書では、先祖は藤原純友の孫・藤原直澄とされている。
直澄が正暦5年(994年)に伊予国から肥前国に入部し、肥前大村を本拠として領主化したのが始まりだとされている。ただし、平家姓だったという説もあり、不明な部分が多い。
九州は平家に加担する武将も多く、政権が源氏に変わった際、各地で色々あったようだ。また南北朝もあり、地方でも揺れ動いていたと郷土誌も述べている。
ただ、これ以上の憶測はやめておく。結局よくわからないからである。
1316年創設されて、令和の世まで残っている神社である。この地域の氏神として信仰され続けていることは間違いない。
神社の祭神は、その時代によって変わることも多いし、名前すら変わる場合もある。
さて、ここの藤原神社はどうなのだろうか。謎といえば謎である。