本河内 地震石神(ないふり いそのかみ)神社 危険な峠の守り神
高速道路の芒塚ICの近くにある。日見の峠と言ったほうがわかりやすいかも。芒塚IC付近から神社を目指せば、かなりの山道を通ることになる。
山の中なので神社の場所はよくわからないが、神社へ行く道の入り口には、長崎街道、日見新道(明治新道)
の道路案内の矢印が建てられている。
つまり、昔、此処は道辻だったのだと思う。またこのあたりには日見峠の番所があったらしい。
道案内の標識から、山の方へ道があり、坂道を登っていく。民家を過ごすと坂の上に鳥居が見えてくる。
神社の入口には、白い杭で長崎幹線と書かれた標識が地面に打ち込まれている。
石垣があり、その石段を上ると一の鳥居。その両脇に大きな自然石の碑が立てられている。
右側のは御大典記念とわかったが、左側のは読めなかった。
参道だが、数本の大きな竹が折れて倒れ込んでおり、道を塞いでいる。その竹を持ち上げたり、くぐったりして進む。
石段を登りきると突き当りで、右手に少しの空き地がある。左手には長崎幹線163号の杭がまたあった。
空き地の左手には、結構立派な石垣が組まれていて、左側に登る石段がある。
その石段を登りきると、右手に広い場所があり、山の方へ石段が伸びている。
その先に祠が見えた。これが地震石神(ないふり いそのかみ)神社のようだ。
石段を上ると右手にコンクリート製の祠があり、その中には狐が祀られているので稲荷のようだ。
本殿もコンクリートで覆われていて、サッシの扉が付けられている。
中を覗くと石の祠があり、丸い鏡の御神体らしきものが置かれている。錆びているのか不明だが茶色い鏡だ。
そこには字が書かれているがよく読めなかった。
後で調べると「御夢想地震神・石神大明神」と書いてあるらしい。
御夢想とは夢の中で神仏のお告げがあること。また、そのお告げの事をいうので、夢のお告げでこの神様を祀ったということだろう。
地震石神(ないふり いそのかみ)
この神社は寛永年間(1640年頃)から祀られているとある。
地震の事を「ないふり」といい、『日本書紀』の「推古天皇紀」に、推古天皇7年(599年)夏に大和地方を中心とする大地震(推古地震)があり、その後、諸国に「地震神」(なゐのかみ)を祀らせたとある。
石神(いそのかみ)だが、一般的には石神(いしがみ)とよばれ、石に対しての信仰で石神(しゃくじん)ともいう。
長崎にも石神という地域があるし、関東では石神井(しゃくじい)という町があるので、全国的な信仰である。
「いそのかみ」という読み方だと、石上神宮(いそのかみじんぐう)というのが有名で、奈良県天理市布留町にある。
この祠が石上神宮に関係しているとは思えないし、おそらく石神(いしがみ)だと思う。
地震による大地の震えを石神で押さえつけると言った意味のようだ。
夢のお告げで設置したとあるが、長崎は岩盤の地形なので地震が起きにくいとされているが、起こったこともあっただろう。
長崎の記録にはなかったが、
1619年5月1日(元和5年3月17日) 肥後(熊本)八代で地震 - M6.0。卯の刻と牛刻の2回の地震で旧八代城(麦島城)が倒壊、竹田城(大分県)が破損。
1625年7月21日(寛永2年6月17日) 熊本地震 - M4 - 6、死者約50人。地震動により火薬庫爆発し、熊本城が破損。
という記録があった。なので長崎にもその当時地震があったかもしれないし、地震を経験した人がこの神社を祀ったのかもしれない。
日見峠(本河内3丁目)地震石神神社
長崎街道の日見峠は山越えの難所で、「坂、甚だ峻、馬に乗ること難し(長久保赤水『長崎行役日記』)」とあるように西の箱根とも呼ばれていました。長崎を訪れた偉人たちもこの峠を越えて長崎へ。また小倉(福岡県)へと向かっていました。坂本龍馬も通った街道です。聖母の騎士フェイスブックより
と書かれていた。
石神信仰は塞の神・道祖神信仰と関連があるとも考えられていて、峠の難所の場所にあるので、土地の神様(なゐのかみ)と共に、旅人の安全を祈願して祀られたかとも思う。
珍しい名前だが、由来もあり、その当時の旅の危なさを現しているのだろう。