藤田尾(とおたお) 森山神社 開拓者三名も祀られている

長崎県長崎市藤田尾町114  森山神社

場所を説明するのが難しい。現在は三和地区の藤田尾町だが、昔、茂木村であった藤田尾名は、昭和22年茂木町と住民の懇願によって為石村に編入されたとある。昭和30年、蚊焼・為石・川原三村合併で「三和町」となり、平成17年長崎市に編入された。

場所的にいっても、茂木町というより為石だろう。読み方は藤田尾(とおたお)である。

藤田尾下 バス停

高台に森山神社がある

森山神社

森山神社

森山神社

森山神社

為石から茂木への途中、県道を離れ集落へ行く。神社の場所はコミュニティバスの停留所とあるので、地図頼りで行っても、すぐに分かったが、肝心の神社がわからなかった。

かなりウロウロしたが、上を見上げると高台の上にあるのを発見。川沿いを回り込むと、鳥居が2つ見えて安堵した。

鳥居を抜けると雑草だらけの石段があり、登りきると狭い境内の中央に、古びだ木造の社殿がある。

拝殿を覗くと、板張りでなんにもなく、鈴が天井にあり、神殿への入り口には巴紋の入った垂れ幕が張られ、わずかに神社らしさを漂わせる。

神殿の方に回り込み、神殿の窓からカメラだけを差し込んで撮影したが、特別なものはなく御祭神もわからなかった。

森山神社

森山神社

森山神社 神殿

祭神は 塩土老翁神(しおつち おじのかみ )

沿革
寛永年間(一六二四~四三)に島原の領主、松倉重政の創立と伝えられ、藤田尾 地区の氏神として尊崇され、正殿、拝殿、常 夜燈の外、石の鳥居が二基あり、古いものでは、嘉永六年(一八五三)八月村中建立と刻まれている。

また、藤田尾の開祖である、小川半根門、三ッ峰近根門、三浦水源の三氏も祀られたとある。

郷土誌を読んでいるとこんな文章を見つけた。

第四節 藤田尾余聞

部落の氏神は小川半根門、三ッ峰近根門、三浦水源の三氏であると伝えられ、今も森山神社にお祭りしている。

神社は三方を川で囲む谷の小高い場所にあるが、住民は暖い場所を求めてか北東向の斜面に居を構えている。水には相当不自由をしたと思われる。

ある時、お遍路さんが通りがかり、部落を見廻して、ここには五十戸程しか住まないだろうと予言したそうである。現に今も五十戸内外しか居住していない。

(略)当部落は天領で、鍋島藩と隣接し、その境界ともなっている。五郎岳東部から飛瀬海岸までの間に部分的では あるが、かつての境界を示す直径一メートル位の円形の石積が数百メートル間隔に残っている。
又、天領の境界番は木場で、藩領は二軒屋でそれぞれ双方からの去来者をチェックしていたの であろう。厳重な警護がうかがえる。藤田尾の者は、こむづかしいなどとよく耳にするが、このような地域性に も関係があるのかもしれない。

その昔、代官が領地見回りの際、集落のよく見える場所におかごを据えられたとかで、今もかご据え場の 地名がある。又前田線の終点には、その当時海辺で舟の上げ下ろしを手伝ったり、部落の見回りなどをして、里人から食物を与えられて生活していたらしい番人の屋敷跡もある。

藤田尾の各所には、いくつかの小さな集落の跡がある。これらの集落の形成は平家の落人が安住の地を求め、 去来を繰返して出来たのであろう。仏の高地、津々谷の滝下流の上道沿及び東面、戸屋平、木場の外、数箇所にある。いずれも川の近くか、出水あるいは堀井戸のある所でこれを利用したものと思われる。又、みな殼を多量に捨てている所もあり、当時の栄養源に食していたのであろう。生活の智恵を思い知らされる面もある。

この後も話は続いていくが、此処までとする。

「藤田尾の者は、こむづかしい」、「平家の落人が安住の地を求め、 去来を繰返し」など面白い。

沿革の寛永年間(一六二四~四三)に島原の領主、松倉重政の創立と伝えられとあるが、松倉重政はこのあたりの神社の創立者として複数、名前が挙げられている。

事実はどうか不明だが、形式上そうなっているのかもと思う。

祭神は塩土老翁神(しおつち おじのかみ )とあるが、この塩土老翁神もこのあたりの複数の神社の祭神となっている。

これも又、不明である。

部落の南西部、荒神山と呼ばれるところに、樹令数百年を過ぎたであろう巨木が縦に九本、又ここより東下に、氏神の一代と思われる三浦水源を御神体としてお祭りしている八幡さまの屋敷跡がある。

ここにも巨木が残っている。部落が起こってから何百年を経ているのか不明であるが、これらの巨木が部落の始まりに深い関係があり、おそらくこの年輪と部 落の起こりの年代が一致するのではあるまいか。又もう一人の氏神の一代三ッ峰近根門はいづれに祭られているかわからない。(抜粋)

神社横 ヤギが飼われている

森山神社

森山神社

「これらの巨木が部落の始まりに深い関係があり」とある。

確かに、森を切り開いて部落を作ろうと思ったきっかけが、巨木だったという話は面白い。

巨木は神木であり、その神を頼りに、三名は開拓を進めたのだろう。

信仰を心の拠り所にして、生きていく姿勢は、古代の人々も現代人も変らないのだと思う。

現在も藤田尾の名前が残っているということは、間違っていなかったと感じた。

 

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