西里町 西長田神社(天満神社)[四面宮] 最初は四面宮
場所は肥前長田駅の近く、長田小学校の南側といえばわかるだろう。
長田川がそばに流れていて、一の鳥居の近くに旧諫早街道という標があり、そばには地蔵様らしき仏を祀った祠がある。
舗装されたTの字道路のかどに、立派な石の鳥居が立っている。
此処には天満神社という神額が掲げられている。舗装された広い道路の左半分が参道で、20~30メートルで二の鳥居がある。
そしてその先に小山があり、入り口に三の鳥居がある。
一、二の鳥居が天満神社の神額、三の鳥居が西長田神社の神額である。
きれいな広い道路の片側に、直線上に並ぶ立派な鳥居は、なかなかの景色だ。
石垣の真ん中に石段があり、登り切ると広い境内に出る。
社殿まで広い石畳が敷かれ、右手の境内奥には、ゲートボールのグラウンドがあり、年配の人たちがやって来ているようだ。
石畳は次の石段まで続いていて、上がると目の前が社殿。社殿は改築されたようで新しい。
拝殿の上にはしめ縄だけが張られ、扉はしまっていた。
賽銭箱と書かれた細長い郵便受けを開いて、その隙間から中を覗く。きれいな拝殿の左手には太鼓があり、祭祀などは行っているようである。
拝殿を回り込むと、同じくきれいな神殿がある。新しさが一緒のようで、同じ時期に改築したのだろう。
拝殿の右手には、屋根がついた木の祠があり、石の祠が一つ、その左手には仏像が二体祀られている。
神社は全体が明るい木板で建てられていて、それほど大きくないがきれいな神社である。境内もきれいに掃除されていて、スッキリしている神社である。
祭神は宇賀魂神、天照大神、菅原道真公とある。
由緒:西長田四面宮(通称=お四面さん)は、肥前国高来郡西長田村八龍名に創建されてより、約470年の歴史を有するお社である。
天文4年(1535)、西郷氏二代領主純久(肥前守)が『悪疫を除き西長田村内の安全の守り神として、殊に五穀豊穣の神として、西長田四面宮と称する小祠を造営、筑紫國魂神を尊崇した』と言い伝えられている。
西長田四面宮の東西には遠くに霊峯雲仙を望む。そして雲仙地獄入口の現温泉神社が四面宮の総本社であったが、一事は筑紫國魂神社と称し、筑紫の島(九州)の守護神として尊崇されてきた。また四面大明神の三の宮が伊佐早四面宮(現諫早神社)であり、その末社として西長田四面宮は造営された。
境内社として、猿田彦神を拝殿の左側に祀った。これは道案内・交通安全の神であるが、周辺の古街道をはじめ一の鳥居前が佐賀に続く多良街道であった。
祭神だが、宇賀魂神、天照大神、菅原道真公だ。
宇賀魂神は『古事記』では宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)と書き、食べ物の神様で、手っ取り早くいえば、お稲荷さんである。
四面宮の祭神だが、有名な諫早神社は天照大御神、大己貴大神、少彦名大神となっているので、天照大神は納得できる。
ただ、四面宮の祭神は四面様である。まあ事情があって宇賀魂神、天照大神、菅原道真公を祀っているのだと思うが、祭神がちぐはぐな感じがすると思った。
右手の祠は、天明2年(1782)6月、拝殿の右側に「ふう神さん」を祀ったとある。
祠には、左手を上げて右手を前に出している立ち姿の仏像がレリーフで現されている。
これはお釈迦様のようだと思うのだが、この仏様が「ふう神さん」だろうか。
祠の横には仏像が二体。石になにか書いているのだが読めなかった。
祭神を時代別に書いてみる。
天文4年(1535)、西郷氏二代領主純久(肥前守)が西長田四面宮と称する小祠を造営。
これが最初である。
境内社として、猿田彦神を拝殿の左側に祀った。天正10年(1582)拝殿の左側に地蔵菩薩を祀る。
現在は見当たらない。右手の祠に移したのかも。
天明2年(1782)6月、拝殿の右側に「ふう神さん」を祀った。
明治41年~大正8年の間に、天満神社と改称された。
天満神社になったのは比較的新しい。
四面宮という名前が使われなくなった理由
四面宮という名は、明治になって廃されてしまった。その理由だが、もともと四面宮は雲仙の温泉神社だ。行基という坊さんが、四面宮と満明寺をあわせて建てたという事が最初だったとされている。
明治まではそれで良かったのだが、明治になって神仏分離という方針で、四面宮は満明寺と分離して、新しく、「筑紫国魂神社(つくしくにたまじんじゃ)」と変更された。
結構大きな名前である。しかし、それがまずかったのかも知れない。
大正三年(1914年)に現在の「温泉神社」と改称されてしまう。
という事で諫早にあった、雲仙の四面宮の勧請先の二十数社の四面宮も改称を余儀なくされたというわけである。
明治政府が行った神仏分離政策の賛否は色々あるが、信仰している住民たちにとって大迷惑だったことは間違いないだろう。
西長田神社(天満神社)[四面宮]という長い名前の裏には、最初は四面宮だったんだよという、気持ちが現れているのだと思う。
地方では神仏習合は当たり前のように行われているが、建前は別々である。
原理原則で言えば、仏教は外国から来た信仰だった訳で、別れていて当然なのだが、時代が2つを結びつけてしまった。
しかし、結果オーライで、それが日本人の心にかなった部分もあり、千年ほど続いていたのだが、明治になり、強引に分離させてしまったのだ。
つまり強引に離婚させられた感じがある。信仰を男女の中に例えて申し訳がないと思うのだが、一度別れてしまったら後戻りできないだろうと思う。
形式上は別れていても、それ以後も仲良くやっている元ご夫婦は多い。
今の神社はそんな感じかな。不遜だと思うが、これは私一人の感想である。