神代 金刀比羅神社 牛馬主宰之神

雲仙市国見町神代 金刀比羅神社 牛馬主宰之神

雲仙市国見町神代

金刀比羅神社

金刀比羅神社

金刀比羅神社

金刀比羅神社 祭神

神代神社を出て、長崎に帰ろうと国道沿いに出ようとしたら、T字路の右側に鳥居が有ったのでいってみる。

そこが金刀比羅神社で、その右隣にも鳥居があり、そこには牛馬主宰之神と書かれていた。

敷地の中に2つ仲良く並んでいて、作りもよくにている。

コンピラ様はよくある神社で、通常は港の見える小高い丘とか、山の上にあるんだが、島原半島は海岸沿いにある。

山といえばそびえ立つ雲仙岳があるので、丘の上よりも麓の海岸沿いのほうが、場所がわかりやすかったのだろう。

また有明海は遠浅なので、遠洋には出ていかなかったのかも知れない。

名前の文字も様々で、金毘羅、金刀比羅、琴平とある。特別な意味はないと思うが、半島の有明海側に等間隔のように8社あった。

地図で調べただけなので、もっとたくさんあるかも知れない。コンピラ様は漁業の神様なので、有明海側の漁業が盛んだったことが伺える。

創立は1816年。10代、11代の鍋島の殿様が建てたとある。

ちょっと不思議なのは、第一の祭神が大物主(大国主)とあり、第二が金毘羅大権現なのである。

海辺といえば、大国主の子供、事代主(えびす)が定番なのだが・・。

牛馬主宰之神

その隣の牛馬主宰之神の神社だが、由来が不明である。

神殿になっている祠の中を見たが、御幣で見えなかった。あるホームページに顔が3つある観音様の写真があったので、恐らく馬頭観音だと思われる。

牛馬は農業に欠かせなく、その為の神社と思うが、街道沿いなので、馬は移動か運搬用に使われていたと思う。

他の地域では、馬が急死した路傍などに供養として馬頭観音の文字だけ彫られた石碑も多いようで、ここもまたそうなのかも知れない。

牛馬主宰之神

牛馬主宰之神

牛馬主宰之神

牛馬主宰之神 祭神

牛馬主宰之神 拝殿裏

 

コンピラ様の方に石碑があり、鶴亀城向町側の出丸に小さな祠があり再建しようとする時、この地長浜の三本松が枯れて誘致もありこの地に建立したと書かれている。

島原と鍋島

島原は有馬と思っていたが、神代はちょっと違う。

神代地区は中世には神代貴益の支配下にあったと伝えられる。戦国時代には神代氏は龍造寺氏と対立し、のち、その配下に入る。その龍造寺氏も天正12年(1584年)、龍造寺隆信の戦死によって崩壊し、神代地区は佐賀藩鍋島氏の支配下となった。当地区には鶴亀城(神代城)があったが、一国一城令により廃城となっている。ウィキペディア

つまり、神代地区は佐賀藩の飛び地というわけである。

元禄期の第4代当主鍋島嵩就の代に鶴亀城の東側に現在の神代小路が整備され、武家屋敷群が形作られた。神代小路の北西にあった陣屋の跡には鍋島邸が建ち、国見神代小路歴史文化公園鍋島邸として整備されている。ウィキペディア

というわけで金刀比羅神社も牛馬主宰之神も、鍋島家によって整備されたと思われる。

神代氏

わかりやすく神代氏滅亡の経緯が書いているHPがあったので掲載する。
https://www.hb.pei.jp/shiro/hizen/koujiro-jyo/

天正12年(1584年)龍造寺隆信が有馬・島津連合軍と沖田畷で戦い討死すると、龍造寺方となっていた島原の豪族は有馬方へと寝返る中、神代貴茂は龍造寺方として踏みとどまり、有馬氏によって攻められた。

しかし神代城は難攻不落であったため攻め落とされることはなかった。

貴茂は有馬氏と和議を結ぶべく多比良城に招かれたが、その帰路謀殺されてしまった。当主を失った神代城も落城し神代氏は滅亡した。

なるほど。戦国時代は寝返りや謀殺は日常茶飯事だったという。

どっちがいい悪いということはないが、武内宿禰を元祖としている由緒ある神代家もあっけなく滅んだのは時代だろう。

この地域の戦国時代の話も興味があるが、私はもっともっと古代の神代を知りたいと思う。

島原にはいろんな神社があるが、神社というのはその時代の権力者によって、神様を上書きされてしまうものだ。

もしかしたら、ここの金刀比羅神社も牛馬主宰之神も、本当は違う神様を祀っていたのかなと想像した。

雲仙市国見町神代

牛馬主宰之神

 

 

コメントを残す