東彼杵町 彼杵神社 ひさご塚古墳のそば

長崎県東彼杵郡東彼杵町蔵本郷1880-1 彼杵神社

大村を過ぎて海沿いに東彼杵町はある。昔は賑わったようだが、今は静かな町で有る。

私が思うに「ひさご塚古墳」という前方後円墳があるので古代の彼杵地域の中心だったと思う。

彼杵神社は前方後円墳のある歴史館の近くに有る。

東彼杵町

ひさご塚古墳

彼杵神社

彼杵神社

彼杵神社

彼杵神社

由来
江戸時代初期に幕府の命により街道整備が行われ、寛永10年(1633年) 巡見使の視察に併せて五棟を建築。幕府の要人や大名等が長崎街道彼杵宿の本陣(宿泊所)として利用しました。彼杵神社は明治13年(1880年)、この本陣跡に鎮座されました。

彼杵神社

由来通り、1880年に建てられたとすれば、かなり新しい神社である。

しかし、彼杵町は、古代の前方後円墳があり、捕鯨で取れたクジラの販売交通網の拠点であり、長崎街道と平戸街道が交差する地点で有るにも関わらず、神社が少ない町である。

そこが妙に引っかかるのだ。

大村藩領地だったので、キリシタンが根こそぎ壊したのかもしれない。

彼杵神社

彼杵神社

彼杵神社は彼杵の名前を付けた神社で、その地域の中心的施設なはずだが、明治になって建てられたとすれば、この地域には大きな神社が全く無かったのだろうか。

特別な理由があるのか、ないのかすら不明である。

神社は広い敷地の中に建てられていて、瓦屋根の中規模の神社である。

祭神は健速須佐之男命。つまりスサノウである。

私が気にしているのは、ヒサゴ塚と彼杵神社の関係である。

ヒサゴ塚は今から約1500年前にこの地域を治めていた豪族で、神功皇后の三韓征伐の際には、武内宿禰(たけのうちすくね)の配下として従軍した武将の墓であるといわれている。

解説では5世紀前半頃の築造といわれ、墳丘上に埴輪の樹立は確認できないが、裾には人頭大の葺石が良好に残存している。埋葬施設は後円部上に2基検出され、副葬品には銅鏡1面、ガラス製小玉(300点ほど)や鉄鏃、鉄剣、鉄斧、刀子などの鉄製品もみられる。長崎県の文化財 HP

武内宿禰の配下というのは怪しいが、この地域に勢力を持つ豪族の墓であることは間違いないだろう。

この地域には土蜘蛛という反大和勢力があったようなので、土蜘蛛たちと戦って勝利した、大和勢関係の武将だったのだろう。

作られたのが5世紀前半頃という事で、その時代は仏教は普及していない。

とすれば神道の影響が有るはずで、近くに神社があるはずだと思う。

もしかしたら彼杵神社は新規に建てられたものではなく、古代より存在した神社を移転してリメイクされたものかもしれないと思う。

そうなってくると、祭神のスサノウも違った意味に思えてくる。

彼杵神社

大村は西暦1000年ほどにやってきた武将が大村氏を名乗り発展してきた地域だ。

それまでの彼杵の歴史をすべて上書きしてしまったのかもとも思う。

大きな名前の神社なのに、その歴史はなにもないのに等しい。

それが、妙に気になった神社である。

彼杵川

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