島原 二本木神社 島原の「桶狭間」大逆転の戦い

島原市北門町126 二本木神社

二本木神社

二本木神社

二本木神社

島原鉄道の島原駅と三会駅の中間辺りにあり、一の門の鳥居から海が見え、線路もすぐ近くを通っている。

私が行った時は夏場なので、境内には多数の雑草が生い茂っていた。一之鳥居を抜けると正面に社殿が有る。

古くこぶりな、瓦葺きの社殿だが、左右の石灯籠が対で3基建てられている。

拝殿はあまり人の手が入っていないようで、回り込み神殿を見ると、神殿の扉が空いている。

二本木神社 拝殿

二本木神社 神殿

境内にはたくさんの祠や、供養のための石仏が並べられていて、雑然としているため社殿を含め荒れている感じがあった。

二本木と呼ばれているが、正面右手には大きなクスノキがあり、それが目立ったが、それ以外にも鎮守の森として巨木もあり、どれが二本木という名前の由来なのかはわからなかった。

祭神は龍造寺隆信公

由緒:龍造寺氏は古くから佐賀城を居城とし、周辺を領知していました。隆信公になって肥前国を制圧し、やがて島津氏と九州の覇を競いました。天正12年(1584年)3月、隆信公は約5万の大軍を率い、有馬、島津の連合軍を征服しようと島原半島遠征を企てました。海路より神代(雲仙市国見町)に上陸し、三会(島原市)に進出。同月24日に両軍は激闘を繰り返し、沖田畷において隆信公はあえなく討死しました。56才でした。

 二本木神社は、隆信公を失った家臣のうち住みついた人達が戦士をいたみ、その霊を慰めようと小祠を建て霊を祀り、二本木様と仰ぎ病除けの神としてたたえて来たのが始まりです。この附近一帯を沖田畷といい、戦闘はこの一帯で行われました。ここから国道を諫早方面へ150m行った右の奥には供養の碑が祀ってあります。

隆信公を失った家臣のうち住みついた人達が戦死をいたみ、その霊を慰めようと小祠を建て霊を祀り、二本木様と仰ぎ病除けの神としてたたえて来たのが始まりです。
この付近一帯を沖田畷といい、戦闘はこの一帯で行われました。 案内板より

龍造寺隆信公

近くに沖田畷古戦場跡 龍造寺隆信供養塔がある。

沖田畷(おきたなわて)の戦い

「肥前の熊」と呼ばれた龍造寺隆信対有馬・島津連合軍の戦いは、まるで今川と信長の桶狭間のようだったと有る。

畷(なわて)とはあぜ道とか細い一本道のことを言う。

3万の大軍を率いてきた、絶対勝てるはずの龍造寺隆信と、有馬軍と島津軍を合わせても1万に満たない規模の戦い。

島津軍も他の地域で戦闘中のため、義久の末弟である家久を大将とした3千の兵を島原へと送り出すことになる。

この時に家久は既に37才であったにもかかわらず、いまだ部屋住みという、自分の領地を持っていない低い身分であり、兵の少なさからみても、十分な援軍とは言えない戦力だった。

この文は下記URLに書かれていて、面白い内容だ。一読をおすすめする。

島津家久はどうして沖田畷の戦いで龍造寺隆信に勝利できたのか?
https://app.k-server.info/history/iehisa_okitanawate/

戦国時代で下剋上の世界では、強いものが勝つというのが当たり前だ。

だが実際の歴史はそうではなく、武田信玄のように突然死亡したり、大逆転で信長が勝ったりする。

この島原の沖田畷の戦いもそのようだ。

境内の供養塔 沖田畷の戦いで戦士した侍たちか?

境内の供養塔

龍造寺隆信が勝っていたら、島原は大きく変わっていき、あの島原の乱も起きなかっただろう。

歴史にタラレバは厳禁だが、この戦いは島原の大きな変換点だと思う。

そう思って神社を参拝した。

二本木神社

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