島原 猛島神社 祭神の謎が深い

長崎県島原市宮の町251 猛島神社

島原駅の近くで、境内から海が目の前に広がる。

大きな神社で、いろんなHPに由来が書かれている。

歴史
1618年(元和4年)、松倉重政が森岳に鎮座していた森岳大明神を海辺の鷹島に遷座し、鷹島大権現と改称した。1625年(寛永2年)現在地に遷座。

1669年(寛文9年)、入封した松平忠房は祭神を五十猛命とし、1675年(延宝3年)に社殿を造営。猛島大明神と改称し、島原城下の鎮守とした。

1792年(寛政4年)の島原大変(眉山の山体崩壊)で社殿は消失。翌年、松平忠馮が神輿を寄進して復興を祈願した。1872年(明治5年)猛島神社と改称。1938年(昭和13年)8月県社。(日本歴史地名大系ほか)『猛島神社志』http://shinden.boo.jp/wiki/猛島神社

かなり詳しい経緯が書かれている。

しかし記録より以前から、この地に祀られていたと言う。

神社はかなり立派で、由緒ある佇まいが強く感じられる。社殿以外にも、稲荷神社や祠がたくさんあり、島原半島の鎮守神、産土神とされている。

屋根には菊の紋が有るのは、五十猛神が天皇家の祖神のスサノオだからだろう。

猛島神社

猛島神社

猛島神社

猛島神社

猛島神社

猛島神社

猛島神社

松倉重政の悪政

松倉重政は島原城主になり、様々な場所に神社を建てている。

大和の五条二見城主だった松倉重政は島原に移って、賢明とは言えない治世を行っている。島原は禄高4万3千石でありながら10万石の大名の城に匹敵する分不相応な規模の城を築いたため、領民から過酷な搾取を行うこととなった。

この際、検地を行い、領内の石高を実勢の倍近くに見積もり、領民の限界を超える税を取り立てた。

さらに幕府への忠誠を示すため、禄高に見合わない規模の江戸城改築の公儀普請役を請け負い、それらの費用を捻出するために過酷な搾取を重ねた。

江戸幕府がキリシタンの弾圧を開始し、寛永2年(1625年)に将軍徳川家光にキリシタン対策の甘さを指摘されると発奮し、徹底的な弾圧を開始した。

松倉重政があちこちに神社を作り始めたのは、この事が大きいと思う。

猛島神社

いろんな解説には「森岳大権現を鷹島(今の高島町 島原城の近く)に移し鷹島大権現と改めた」と書かれている。

森岳大明神は山の神様で、なぜ海辺の鷹島に遷座し、鷹島大権現と改称した理由がわからない。その後、寛永2(1625)年に森岳城の鬼門にあたる現在地に神苑を営み社殿を新たに設け遷座した。

百合若大臣

講談社の絵本 日本童話集(百合若大臣外五篇)

鷹島大権現が猛島神社になった経緯は、かなり後の松平忠房公の時代で、侍講の伊藤栄治の説を採用して猛島大明神と改めたとある。

伊藤栄治の「鷹島は五十猛神に由来する」と推論は、おそらく鷹島大権現がもともと山の神である森岳大権現だからであろう。

森の神、木の神で有名なのは、スサノウの息子の五十猛だからだろう。

また、「肥前国西南の沖に五十猛島有り」という文があり、その事から島原の古名は五十猛島というという話も有る。

しかしその出典は百合若大臣(ゆりわかだいじん)という話から来ているとされている。

百合若大臣(ゆりわかだいじん)は、百合若という名の武者にまつわる復讐譚。これを題材にした幸若舞、それを読み物として流布させた版本(「舞の本」)、人形を使った説経操り、浄瑠璃(室町後期-江戸時代)などがあり、日本各地、特に大分県や壱岐に伝説として伝わる。

その話とは、蒙古襲来に対する討伐軍の大将に任命され、神託により持たされた鉄弓をふるい、遠征でみごとに勝利を果たすが、部下によって孤島に置き去りにされる。しかし鷹の緑丸によって生存が確認され、妻が宇佐神宮に祈願すると帰郷が叶い、裏切り者を成敗する、という内容である。ウィキペディア

つまり、事実かどうか不明である。ただ不思議な伝承が多く、色んな人達が真偽を調べている。

オデュッセイアとの類似
坪内逍遙は、古代ギリシアの詩人・ホメロスが謡った叙事詩「オデュッセイア」がなんらかの形で(あるいは室町時代にポルトガル人の手により)日本に伝えられ、それが翻案されたものこそが「百合若大臣」であるとの説を、1906年(明治39年)に『早稲田文学』誌上「百合若伝説の本源」で発表した。

これには賛否が当然有る。

反対派
この説は、いちどかつて津田左右吉、柳田國男、高野辰之、和辻哲郎などによって鋭く排撃されている。
反対派の主旨としては、まず、この型の説話の分布は広く、偶然の一致として懐疑的に見る意見がある。また、百合若の初演が1551年であるが、ポルトガル人による種子島銃の伝来からわずか7年あまりでそれほど完成度の高い翻案を不可能と目す論旨がある(金関丈夫など)。

賛同派
坪内との同調派には、新村出にくわえて、アメリカ出身のE・L・ヒッバード(同志社女子大学教授)があり、また日系人のジェームス・T・アラキがいる。アラキは、たとえ初演が1551年にあったとしても、1550年頃にザビエル神父の通訳ファン・フェルナンデズによって伝承されたことは可能であると力説した。これに賛意を唱えた論文も、井本英一(2004年)や松村一男(2016年)が新たに出ている。賛同派は、『ユリシーズ』と『百合若』のみが、いくつものモチーフが段ごとに連綿として一致する酷似性があると強調する。

猛島神社

猛島神社 神殿

猛島神社 境内の稲荷社

ふーん。

話がとんでもない方向に進んでいるが、「肥前国西南の沖に五十猛島有り」という言い伝えから、猛島神社という名前になっている。

そして五十猛の伝説から、さまざまな行事や伝説が、猛島神社の話になってしまうのだ。

例えば、祭神が五十猛神、大屋津姫神、抓津姫神となっている事もそうである。

また、五十猛が朝鮮半島からやって来たことに古事記ではなっているので、島原半島の渡来人移住説とかに話は広がっていくのだ。

ただ、百合若大臣の話は物語で、百合若の初演が1551年である事を考えれば、そう簡単に鵜呑みにできない。

しかし深読みすれば、この物語の大元が古代からの伝承を題材にしているとすれば、もしかしたら、古代の日本の姿を映し出しているのかもしれない。

成吉思汗は義経だと言う話や、役行者は超能力者で実際に空を飛べたという話も全く嘘とは片付けられないからだ。

さらに古事記にしても、古代伝承をまとめたものである。

さて、どうだろうか。私も大きく迷っているところである。

ただこの神社の祭神が誰であろうと、この地の人びとの大切な神社だったことは、間違いないのである。

猛島神社

猛島神社

猛島神社

猛島神社

 

コメントを残す