西海町 佐久奈止神社 歴史のケガレを払う

長崎県西海市西海町水浦郷680 佐久奈止神社

小迎インターチェンジで西海橋方面に行かず、大瀬戸方面の道を進み、海岸沿いの瀬川港の湾岸にある。

佐久奈止神社 水浦交流センター

佐久奈止神社

佐久奈止神社

佐久奈止神社

佐久奈止神社 拝殿

佐久奈止神社 五三の桐紋

佐久奈止神社 神殿

広い舗装した道路に面していて、水浦交流センターの広場もしくは駐車場の奥に、一の鳥居が見える。

コンクリートで、神社までの高さを三段にしていて、下から見上げると結構急な石段の参道だ。

しっかりとした立派な鳥居をくぐり上り登ると境内に着く。

神社はかなり古いようで、鳥居と参道との格差が大きい。こぶりな神社の壁は板塀で、屋根は瓦葺。その板塀も風水によって、かなり傷んでいる。

格子の拝殿の扉で、拝殿の中は外側ほど荒れていなく、見た目はきれいに配置されているように見える。

神殿の前の垂れ幕には桐の紋が染め抜かれている。紋は五三の桐紋で、室町幕府のほか皇室や豊臣政権など様々な政権が用いており、現在では日本国政府の紋章となっている。

窓は木の格子でガラス窓になっているが、昔の神社ほど隙間だらけで作ってあると思う。神殿にある窓から中を覗いたが、神棚には何も載っておらず、ガランとしている。

佐久奈止神社の左手には、やはり石段があり社がある。石段入り口には釈迦如来と書かれた、短い石の柱が建てられている。

この社は佐久奈止神社の参道からも道があり、社の扉はしまっていたが隙間から覗くと、仏像が見えた。

佐久奈止神社左にある釈迦如来の社

祭神

創建は延寶二年(1674年)らしい。

祭神は瀬織津姫。

『延喜式』の大祓詞に登場する祓戸四神(瀬織津比売神、速開都比売神、気吹戸主神、速佐須良比売神)の一柱。穢を祓い去る神とされている。

大祓詞 後半
遺る罪は在らじと。祓へ給ひ清め給ふ事を。高山の末。低山の末より。佐久那太理に落ち多岐つ。早川の瀬に坐す。瀬織津比売と伝ふ神。大海原に持出でなむ。

短くわかりやすく訳すと
「大祓詞(おおはらえのことば)により祓われた穢れは、渓流の瀬にいらっしゃる瀬織津姫が大海原に運んでくださる。」ということになるのでしょう。
伊勢志摩.com https://伊勢志摩.com/?p=10664

また、饒速日命との関連もあるとかまた、天照大神の荒御魂とも言われているらしい。さらに古事記や日本書紀には登場しない姫である。

佐久奈止神社の佐久奈止という名称だが、滋賀県大津市の佐久奈度(さくなど)神社の末社だろうか。

「ど」と読ませる止と度がなぜ違うのか不明だが、大祓詞の「佐久那太理に落ち多岐つ。(さくなだりにおちたきつ。)」の佐久那太理が語源と思える。

謎の多い神様だけど、深読みする前に長崎の歴史を確認したい。

穢の歴史

創建が延寶二年(1674年)となれば、江戸時代前期だ。

1639年にポルトガル船の日本渡航を禁止、1641年平戸のオランダ商館を出島に移す(鎖国体制完成)とある。

この水浦郷の近くには、横瀬浦がある。

平戸貿易を断念したイエズス会は代わりとなる港を探して横瀬浦にたどり着く。大村領主大村純忠が手を差し伸べ貿易港として繁栄する。「日本史」を記したルイス・フロイスも横瀬に上陸し布教活動を開始した。純忠はこの地に教会を建て自らもキリシタンとなり日本初のキリシタン大名となる。(略)武雄の後藤貴明らによって夜襲を受けて横瀬浦は焼き払われ、その後長崎が開港されることになる。上町、下町、思案橋など当時の地名が残っている。 フロイスの記述で「横瀬浦は日本で最も知られたキリシタンの町になった」と報告されている。ウィキペディア

横瀬浦

つまりポルトガルの歴史とキリシタンの歴史があった場所である。

その近くの港に佐久奈止神社がある。そして海に出れば、西海橋の針尾瀬戸がある。針尾瀬戸は日本三大急潮の一つとされるほど潮の流れが早い。

その事を考えれば、水の神様であり、穢を祓い去る神である瀬織津姫を祀ったのはわかるような気がする。

キリシタンやポルトガルはケガレで、針尾瀬戸の急流でケガレを拭い去りたいと考えたのではないか。

創建の由来は不明だが、神殿の前にかかっている桐の紋から推理すれば、政権側の人間が関わっているとも言える。

神社も小さく、近くに釈迦如来を祀る社があるのは、昔は一緒に祀られていて、神仏習合の地域の鎮守の役割を背負っていたのだろう。

村人の願いは平穏な時の流れであり、ケガレから逃れることである。

神社の参道から、神社の周りをぐるりと細いしめ縄が張られていた。そこまでしめ縄で結界を作る神社は少ないと思う。

穢れを祓う気持ちが強い証明かなとも思った。

佐久奈止神社 しめ縄

佐久奈止神社 参道にもしめ縄

 

コメントを残す