沖縄 那覇への旅(6) 琉球と中国のつながり

琉球王国は1429年に、沖縄本島を統一した中山の尚巴志(しょうはし)という王が明皇帝から冊封を受ける。

この冊封により、琉球という王国名と琉球王という爵位と尚という名字を賜った。

「琉球」の表記は実はそれ以前に、『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷傳 流求國」が最初である。

同書によると、「607年、隋の煬帝が「流求國」に遣使するが、言語が通ぜず1名を拉致して戻った。

翌608年再び遣使し慰撫するも流求は従わず『布甲(甲冑の一種)』を奪い戻る。この時、遣隋使として長安に滞在していた小野妹子らがその『布甲』を見て『此夷邪久國人所用也(此れはイヤク国の人が用いるものなり)』と言った。

は遂に陳稜に命じ兵を発し流求に至らしめ、言語の通じる崑崙人に慰諭させるも、なお従わず逆らったため之を攻め、宮室を焼き払い男女数千名を捕虜として戻った。」と記されている。

同書は「流求國」の習俗を子細に記すが、その比定先として挙げられる台湾や周囲の先島諸島、沖縄諸島やルソン島などは、この時点ではいわゆる先史時代に当たり同定は難しい。なお、「夷邪久(イヤク)」は屋久島を指すとする説と、南島全般(すなわち種子島・屋久島より南方)を指すとする説とがある。ウィキペディア

まず隋は琉球の言葉がわからなかったという事だ。そして宮室を焼き払い男女数千名を捕虜としたとある。

うーん やはり中国の帝国は恐ろしい。

国際通り

琉球という名は、中国側が読んでいた名前である。

名前の由来をみてみれば、

島の形が蛟に似ていることから、琉蛟(中国風の読み方で、りうこう)となり、それが琉球へと変化していったのではないかとする説。

他にも優れた漁場であることから魚(うお)の国と呼ばれていたのが、中国人が聞き取った際にリュウキュウとなり、現在の漢字が当てられたという説もある。(中国人にイユクと聞こえ、ユークーとなり琉球となった)
https://www.okayamania.com/chimei/bangaihen/okinawa.htm

ただ、この琉球という国名は、主に役人や王といった身分の高い人々の間で使われていた。

琉球と呼ばれるようになる以前は、庶民も権力者も自分たちの国のことを、「オキナハ」と呼んでいたとある。

書物での初出は779年の「唐大和上東征伝」の「阿児奈波(あこなは)」だ。

「おき」は文字通り「沖」を意味し、「なは(なわ)」は「魚場(漁場)」を意味する「なば」で、「沖合の漁場」とする説が有力とされている。

少し詳しい解説があったので記しておく。

14世紀後半、本島に興った山北・中山・山南の3国(三山時代)に対して明が命名したものであり、それぞれ琉球國山北王、琉球國中山王、琉球國山南王とされた。

このうち中山が1429年までに北山、南山を滅ぼして琉球を統一した。これ以降、統一王国としての琉球王国(琉球國)が興る事になるが、国号と王号は琉球國中山王を承継し、これは幕末の琉球処分まで続いた。

なお、鎌倉時代にあたる1305年(大徳9年・嘉元3年)の称名寺所蔵行基図、14世紀半ば作と見られる『日本扶桑国之図』には南島の領域として「龍及國」と記されており、これは三山の冊封貿易開始よりも前である。

首里城

沖縄の中の中国

那覇市の東海岸に松山公園という公園に久米三十六姓(くめさんじゅうろくせい)の石碑がある。久米三十六姓は、1392年に明の洪武帝より琉球王国に下賜されたとされる閩人(びんじん 現・福建省の中国人)の職能集団、及びその後三百年間にわたり閩から渡来した者や首里・那覇士族から迎え入れた人々の総称。

本土復帰後第6代知事の仲井眞弘氏は、「久米三十六姓(蔡氏)」の子孫であることは広く知られている。沖縄文化の中に中国的な要素が色濃いという事実は、「久米三十六姓」と切っても切り離せない。環球時報

久米村600年記念碑

これを読むと琉球の中に中国が脈々と息づいていることがわかる。

中国との長い関係の中で、公式ルートを通じて中国に渡航した琉球人の数は5万~6万人に達すると推定されることである。

琉球王国はひらがなを使っていた

これだけ深いつながりがあるのだから、流通していたのは中国風の漢文を使っていたと考えがちだが、琉球国内で広く一般的に使われていたのは日本の「ひらがな」だ。

まだ文字を持たなかった琉球列島へ、1265年、日本の僧・禅鑑が平仮名を伝えたと言われている。平仮名は、表音文字として文書全般に利用された。

また、国王から家臣に出された任命(辞令)書は全て「ひらがな」の草書体で書かれ、中世日本で使われていた「候文(そうろうぶん)」という書き方と同じ。候文とは、文章の最後を「~です。」とするのではなく「~候(そうろう)。」と書く文体のことである。

有名なのは、「メンソーレ」で歓迎のあいさつに使われる言葉。沖縄空港の入り口にも大きく書かれている。

「メンソーレ」の語源は、日本語の古語「参り召しおはれ(まいりめしおわれ)」や「参り候へ(まいりそうらえ)」と言われている。

琉球から明朝に送る外交文書には全て漢文だ。しかし日本も朝鮮も東南アジアも、明朝に出す外交文書は漢文だった。

沖縄空港

ひらがなの使い方が日本と違う

琉球がひらがなを使っていたと知れば、なんとなく嬉しくなってしまうが、使い方が日本と違っている。

琉球は公文書でも「ひらがな」を使うが、中世の日本は公文書では「ひらがな」を使わない。

ひらがなで書かれていても、琉球独特の言葉や表現を使っているので、読めても意味がわからない。

という事は、日本人が使っているローマ字のように、表音文字として定着していたのである。

http://okinawa-rekishi.cocolog-nifty.com/tora/2006/06/post_3dca.html
参考文献:高良倉吉『琉球王国の構造』

しかし日本も中国の漢字を日本流にアレンジして使っている。同じようなものだろう。

日本独自のひらがなを使っているのに、本土の日本人には読めても意味がわからない。

それが琉球なのだ。

首里城

 

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