沖縄 那覇への旅(8) 琉球王国と薩摩藩

沖縄舞踊 おきなわワールド

沖縄の歴史を長々と書き綴ったが、一番興味があったのが、薩摩と沖縄の関係である。

なぜ薩摩藩は琉球を攻めたのか?~明・清との関係と貿易利益
https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/6252
WEB 歴史街道 山本博文(東京大学教授)

上記のページが一番わかりやすかった。全文を載せたいくらいだが、抜粋して要約することで全体像と事実をお伝えする。

概略

戦国時代の末期に薩摩の島津氏が大隅と日向を統一して南九州を制覇。

島津氏「琉球渡海朱印状」の発給。(渡航を独占)

秀吉の九州攻めによって島津家は秀吉に服属。秀吉の朝鮮出兵を行う際、軍役に相当する費用を負担させる。

1602年 島津氏は、奥州の伊達政宗領に漂着した琉球人を琉球に帰したが、琉球がお礼の使者を出さないという理由で、1609年、幕府に琉球国への軍事行動の許可を願う。

薩摩はどうしても琉球国を手に入れたかった理由。
関ヶ原の戦いに西軍として参戦して家康と対立した島津氏は敗戦による痛手は大きく、藩財政立て直しのために、琉球の貿易利権に目を付けていた。

幕府は秀吉が行った対外戦争の負の遺産を何とかしたいという思惑がある(名目上、明との戦争状態が継続)

薩摩藩の琉球攻めを承認。(琉球を通して明との和解が目的)

薩摩の軍事力に圧倒され、琉球は降伏。(琉球国の存続は認めたが、島津氏に税を納める)

1610年、島津家久は捕えた琉球国王(中山王)尚寧を江戸に連れていく。

3代将軍家光は、島津家久に、「薩摩・大隅両国と日向諸県郡60万5千石のほか、琉球国12万3700石を与える」という領知判物を出す。

中国の事情
明は北方の女真族の進出によって滅亡。明の後を継いだ清は平定するのに忙しく、辺境の琉球にかまっている暇がなくなる。

琉球国は清と改めて冊封関係を結び、今まで通り朝貢貿易を継続。

貿易の利益は薩摩に取られ自治体制を維持するという状態が続くが、琉球は貿易のため、日本にとって重要な地域になっていく。(幕府の直轄貿易港の長崎と比べても無視できない規模となる)

ここまでが、薩摩と琉球の関係だ。

琉球にしてみれば、薩摩はまさに疫病神だったのだ。さらに江戸幕府も琉球を利用する。

江戸時代後期「朝鮮通信使」が来なくなり、代わりに、琉球使節に異国風の格好をさせ、行列を組ませ幕府の威光の道具にしてしまう。

明治になると、琉球はなくなってしまい沖縄になる。

明治5年(1872)琉球国の領地と人民を日本政府のものにするという「琉球処分」が行われ、外国との直接交渉は禁止、琉球国王の尚泰は藩知事となり、ほかの大名と同じ扱いになっていく。

さらに、明治12年(1879)になると、日本政府が軍隊300名余と、警官160余名を派遣して首里城に入城、城を明け渡させて、廃藩置県を布告。

清は、琉球は自国の冊封国であるから勝手なことをしては困ると日本に抗議。

明治27年(1894)に日清戦争が勃発、日本が勝って台湾の割譲に成功。(琉球や奄美諸島など南西諸島は日本の領土で決着)

この流れで、琉球王国の変遷がよくわかる。

まあ島津が一方的に琉球を取り込んでいったと言えるだろう。

だからといって、単純に薩摩が悪い、琉球は可愛そうという結論にはならないはずである。

世界を見れば、第二次世界大戦は1945年(昭和20年)に終わったが、それ以後も国際紛争が起こり続け、現在(2022年)も、ロシアとウクライナの戦争が続いている。どんなに理想論で平和を語っても、現実はこれまでとあんまり変わっていないのだ。

ただ過去の歴史を知って、未来に活かす事が重要で、これが歴史を学ぶ最大の重要事項だと思う。

沖縄の風習

国登録有形民俗文化財 旧上里家 おきなわワールド

まず沖縄では本土とは違う独特の家族制度(門中(むんちゅう)制度)がある。

門中と称する父系血縁原理に依拠する固有の家族文化を今でも残している。これは、特定の祖先からの子孫(男子のみ)全員をメンバーとする排他的な成員権を持ち、門中墓などの共有財産を持ち、系図を有するものである。
門中はもともと唐の風習であって、それが琉球王国時代に沖縄の士族の中に取り入れられ、その厳格性は現在にも引き継がれている。

この門中制度をはじめ、基本的に沖縄では、長男に代々受け継がれるお仏壇を中心に家族、親戚が一同に集まる行事が多いことが特徴で、例を挙げると、旧暦に3日間かけて行われるお盆を始めとしてお彼岸、清明祭(シーミー)、旧正月などがある。こういった行事を通した親戚同士の繋がりは非常に大切なものとして扱われ、余程のことがない限りは参加し、顔を合わせ言葉を交わすことで繋がりを維持していく。
(略)
商品の質や値段に関わらず、知り合いや繋がりのある人(業者)から優先的に購入するなど、“高品質”や“適正価格”よりも、知り合い、仲間内の“縁”を大切にしているという沖縄の社会文化は人と人の繋がりを大切にする優しい文化である反面、本土の参入を許さず適正な市場競争、市場経済が生まれないという、まさに沖縄の光と闇を見せている。

「楽園の島」が見せる光と闇 -沖縄文化と貧困の本質-
独自の社会文化と貧困の関係性 オピニオンズ
https://web-opinions.jp/posts/detail/343

この記事は沖縄の側面を、しっかり見せてくれる。

長い間、中国大陸の帝国と関わってきたため、中国儒教や中国風の慣習が根付いていると言える。

また血縁の集団の結束が硬いことも、中国の華僑を連想させられる。

料理にしても、宮廷料理と民衆料理に分けられ、支配層と一般人との経済格差が著しいのも、中国を連想させられる。

沖縄を取り込んだ日本は、結構決めの細かい対応を沖縄に対して行っている。

近代日本に組み込まれた沖縄県だが、古い制度を残し急激な改革を行わない「旧慣温存策」が取られていた。しかし、旧支配層のみがその恩恵を受けるばかりで、一般県民は貧困に苦しむという状況が続き、1886年から87年に伊藤博文総理大臣をはじめとする政府要人が来島し、沖縄県統治の方針が修正されることになった。ウィキペディア

那覇市歴史博物館 伊藤博文

琉球と薩摩を検索していると、興味深いページに出会った。

「鉄砲に対して丸太棒で応戦」中央集権国家・琉球王国が薩摩軍の侵攻に大敗を喫したワケ
沖縄は、かつては日本や中国・明と交易する「琉球王国」であり独自の文化が発展した。志學館大学の原口泉教授は「琉球には弓や矢といった武器がなく、『ノロ』という女神の祈願が戦う術だった。そのため鹿児島藩(薩摩藩)の琉球侵攻では大敗を喫することになった」という――。
https://president.jp/articles/-/58060 プレジデントオンライン

これもまた、琉球王国の側面である。

日本は戦国時代をへて、信長、秀吉、家康と傑物が覇権を争いつづけ、その当時世界でも有数の軍事国家になっていた。

そのせいで、西洋の侵略をはねのけた。しかし琉球王国は独立はしていたが軍事力は乏しく、強力な中国王朝と強者日本との間にあって、結局日本となった。

今回、初めて沖縄を訪れて感じたのは、私自身が観光地沖縄ということだけしか知らなかったことである。

旅行中は天気に恵まれ、青い空とエメラルドグリーンの海という楽園イメージを受け取ったのだが、これもまた、私の偏見の一つにしか過ぎないだろう。

沖縄に着いて首里城を回った。この後、まだ色んな所を回っている。

長い文章だが、その都度の感想を書き綴りたいと思う。

沖縄空港へ着陸する飛行機

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