脇岬町 肥之御崎観音寺 遊郭もあった古代繁栄の地
脇岬の海岸を過ぎ、左手にお堂がある細い道を進むと観音寺がある。
石の門があり進むと左右に仁王像がむき出しで立っている。
2015年に撮影しに来た時は楼閣があった。おそらく老朽化でなくなったと思う。
その時にあった仁王像だ。
広い駐車場になっている境内には、左手に参禅のお堂があり、石段の右手には宝篋印塔(ほうきょういんとう)という供養塔、子安観音が祀られている。
上の境内に上がると、左に釈迦三尊堂、右手には日蓮聖人のお堂がある。
正面のお堂は立派な建物だ。
由来
和銅2年(709)、僧・行基(ぎょうき)開祖と伝えられる曹洞宗の寺である。この寺は、平安時代末期に創建された真言宗のお寺の跡に建立された。現在のお堂は、江戸時代に再建、その御本尊は往時から“みさきの観音”とよばれた千手観音立像が祀られている。
この観音様に信心するために、御崎道(みさきみち)が存在している。それほど江戸時代は長崎の人々の信仰が篤かったと言われている。
文化財も多く、木造千手観音立像(国の重要文化財)、観音堂内陣天井絵(県指定有形文化財) 、梵鐘(市指定有形文化財)、宝篋印塔(市指定有形民俗文化財)がある。
野母崎
江戸時代の野母崎地域は佐賀藩深堀領だった。しかし時代によっては島原藩が治めていたこともある。
そして長崎へ出入りする唐船の風待ち港として栄える。
「樺島遊郭」の記録がある。
明治時代、大きく繁栄した「樺島遊郭」
町は大きくわけて新町と古町に分かれます。新町を歩きましたが、古民家が多く残されており、蔵造りの主屋や商家などが残りますが、妓楼と思われるような建築も残されています。いわゆる貸し座敷です。明治15年現在で、貸し座敷が9軒、娼妓39人が記録されており、近郊の島原湊、口之津港につぐ数で、樺島港の繁栄ぶりがわかります。
古代から栄えていたと思われる野母崎半島の謎を追求した私説をアップしている。
ご興味があればご一読を。
古代長崎で繁栄してい野母崎の宮廷文化
https://artworks-inter.net/ebook/?p=276野母崎の葛城の神と土蜘蛛
https://artworks-inter.net/ebook/?p=266航海・漁業の守護神「娘媽(ノーマ)」が野母崎の語源
https://artworks-inter.net/ebook/?p=271