ボケ封じの松嶋稲荷神社(本河内) 長崎10社巡り
長崎街道と呼ばれる道中にあり、長崎から言えば中島川沿いにある蛍茶屋をすぎて、日見の峠への上りにある。
神社近くになると、一ノ鳥居が現れ、石碑や地蔵堂が道脇にあり、赤い鳥居が並ぶ石段を上ると本殿に着く。
松嶋稲荷神社は、江戸時代初期の正保3年(1646年)に創建された神社とある。
長崎はキリシタンの街になりトラブルが出たので、豊臣秀吉は(1587年)に「伴天連追放令」を出す。
しかし、キリシタンの勢いは止まらず、徳川家康(1612年・1614年)は 幕府として全国的な「禁教令」を発布する。
その後、島原の乱(1637年〜1638年)が起き、これを機に「禁教令」は強力なものとなり、それ以降長崎では、キリシタンに焼き討ちされた神社仏閣が建て直されている。
松嶋稲荷神社もその一つの推測される。

松嶋稲荷神社
名前の由来
松嶋という名称だが、江戸時代、この一帯が長崎街道沿いの「松風の里」と呼ばれていたことに由来するという説や、大村の捕鯨家・松島與五郎が深く崇敬していたためその名がついたという説(長崎市史)がある。

松嶋稲荷神社 由緒書き
神社を建てたりするのはお金がかなりかかるので、松島與五郎説が有力だと思う。
松嶋與五郎という人物は、大瀬戸町の松島で鯨組を行った人物である。本来は深沢与五郎という。
当時、松島近海には鯨が多く、松島と瀬戸の水道をクジラが群れをなして泳いでいたそうである。
クジラ1頭獲れば七浦うるおうと語られ、松島は豪華な邸宅、蔵、長屋が立ち並び、松島鯨組の名声とともに東西に知れ渡ったとある。
そのクジラ漁で得た巨万の冨は、ため池の建設など公共事業に私財を投じ地域の住民から尊敬されたと記録にのっている。
殺生で富を築いた人間は神仏を大切にしたがる。罪滅ぼしなのだろう。
祭神は豊受比賣命(とゆけひめのかみ)。
本来食べ物の神様だが、江戸時代になると、いろんな御利益がつくようになる。
なので稲荷は何でも屋の神様でもある。
松嶋稲荷神社を山側に登れば、次は日見峠である。
旅の始まりでもあり、終わりでもある場所にあるので、旅人たちは、いろんな思いを祈ったのだろう。

松嶋稲荷神社 国道側
ボケ封じ
表題のボケ封じだが、本殿の左側に社があり、赤い鳥居には松島天満宮、於百大明神(おひゃくだいみょうじん)の神額がかかっている。

松島天満宮、於百大明神
天満宮は馴染みがあるが、於百大明神とは
松嶋稲荷神社が鎮座する本河内・西山エリアは、伝説の女性「お百さん」が住んでいた場所と伝えられています。お百さんの屋敷跡(お百屋敷)がこの近くにあり、お百さん自身もこの地域の神仏を篤く信仰していたとされています。彼女が100歳のとき、その長寿ぶりが幕府にまで伝わり、将軍・徳川吉宗公からお祝いの品が贈られたという記録が地元の伝承に残っています。(ジェミニAI)
とあった。
これは初めて知った。本当かいな。
さらに、本殿右手奥には石像があり、そこには不呆尊神(ふほうそんしん)と書かれている。

不呆尊神(ふほうそんしん)
不呆尊神(ふほうそんしん)とは、主に「ボケ封じ」や「無病息災」の利益があるとされる神様、あるいは仏様を指す名称だ。
額が広いので、七福神の福禄寿(ふくろくじゅ)かなと思ったら、「ボケ封じ」の神様である。
調べてみると、晧台寺(こうたいじ)西山神社に「ボケ封じ」の神様がいるという。
この神社は長崎街道の入り口に近いことから、古くから旅の安全や無事を祈る場所でもあった。
そして長寿を願う人たちもお参りに来ていたということである。
結構長生きだった昔の日本
江戸時代の平均寿命は30代〜40代前半と言われているが、乳幼児の死亡率が極めて高かったことで、平均がグッと下がっているが、60歳前後まで生きることは珍しくなく、75歳くらいまで生きるというデータもある。
つまり現代と同じく、長寿・健康思考だったというわけである。
350年以上も続いている神社である。
それなりのご利益はあるんじゃないだろうか。

松嶋稲荷神社

