金比羅神のいない金刀毘羅神社(西山台) 長崎10社巡り

金刀毘羅神社
「こんぴら」さんは、全国にある。
その数は600社と言われているが、小さな祠などを数えれば、実際にはもっと多い。
「こんぴら」さんは航海の神様として、江戸時代に爆発的に広がったとされる。
それは江戸時代が「水運の時代」だったからだ。
金毘羅さんが全国に広がった理由
江戸時代は、物流の主役が「船」だった。
「北前船(きたまえぶね)」や「菱垣廻船(ひがきかいせん)」など、命がけで海を渡る船乗りや商人たちが急増した時代だ。
海は危険がいっぱいで、航海安全をかなえてくれる金毘羅大権現が必要とされた。
讃岐(香川)に本宮があるが、その参拝旅のために庶民の間で「講(こう)」が流行った。
旅行が制限されていた時代にあっても神社参りは許可されていたので、娯楽と信仰を兼ねて、金毘羅参りが大流行したのである。
さらに「流し樽」という信仰が全国の船乗りたちの間で広がった。
洋上で四国沖を通過する際、樽に「奉納 金毘羅大権現」と書いた幟(のぼり)を立て、お賽銭と初穂料を入れて海へ投げ込む。
海で見つけた他の船や地元の漁師は、この樽を拾うと、必ず責任を持って金刀比羅宮へ届けなければならないという不文律(信仰)があり、こうした「海の男の心意気」が金毘羅さん信仰を底上げしていったという。
インドの神様たち
金毘羅さんのルーツは、インドのワニの神「クンビーラ」だ。
仏教において薬師如来の十二神将の筆頭(宮比羅大将/くびらたいしょう)とされた。
なぜインドの神様が日本でこれほど流行ったかといえば、日本の信仰の独特さが理由である。
神と仏を一緒にしてしまう「神仏習合」が古代より行われていた。
もともと仏教は柔軟で、インドのヒンドゥー教の神々を取り込んで日本に伝わった。
それが日本の神仏混合という、より柔軟な信仰によって、日本の神様と混じり合っていったのだ。
クンビーラ(ワニの神)が金毘羅大権現となり、明治の神仏分離で、いわば「大物主神(三輪山の神)」に転向していったのである。

クンビーラ
一神教の国の人なら「あり得ない」と怒り出すような組み換えを、日本人は行った。
これは、明治政府の「神仏分離令」がきっかけだった。
かつて聖徳太子が仏教を日本に持ち込み、政治に組み込んでいった際、日本にもともとあった神道と融合し、神仏習合の形をとっていった。
神仏習合は、奈良時代(8世紀)に仕組みとして確立し、明治時代(19世紀)まで約1,100年以上も続いたのだ。
それが明治政府の「天皇中心の国づくり」のため、仏教と神道を切り離すことから始まった。
そして同時に、仏教中心だった徳川幕府の力を弱めるためでもあった。
しかし、神仏分離の方策が現場(地方の役人や過激な尊王攘夷派)に伝わると、それは「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」という過激な行動になっていく。
これにより、全国の由緒あるお寺が壊され、領地を没収され、貴重な仏像や経典が薪として燃やされたり、海外へ叩き売られたりした。
さらに、神職へと強制的に転向させられた僧侶が続出した。
讃岐の本家・金毘羅大権現が、仏教の宝を必死に守りながら「大物主神」を祀る神社へと一晩で衣替えしたのも、この廃仏毀釈の嵐から聖地を守るための決死の防衛策だったのである。

神殿
西山の金刀比羅大権現
御祭神:大物主大神、崇徳天皇
相殿神:菅原大神
場所:長崎県長崎市西山1丁目938(金比羅山の中腹に下宮、山頂に上宮)
由緒:1705年に讃岐国(香川県)の金刀比羅宮から勧請され、長崎の街の安全や、特に華僑からの信仰も篤い神社。
金刀比羅神社の総本社である金刀比羅宮は、香川県琴平町の琴平山(象頭山)にある。長崎では明治維新を受けて、それまでの「無凡山神宮寺(むぼんざんじんぐうじ)」の祭神が金比羅大権現だったことから「金刀比羅神社」と改称。山の名前も「金比羅山」となった。
金比羅山は昔、「無凡山」だったのだ。
現在の金刀比羅神社があるあの山一帯は、江戸時代には「無凡山」という山号を持つお寺の境内でもあった。
長崎は開港を機に、キリスト教の街になっていく。
徳川幕府の禁教令を受け、長崎奉行所は社寺の建立を強く後押しし、その一環として「無凡山神宮寺(旧称・慶高寺)」が建てられた。
そして明治の「神仏分離」によって神宮寺は廃寺となり、公式な地名や神社の名前からは「無凡山」の名が消え、現在の「金刀比羅神社」だけが残ることとなったのだ。

奥の院
山頂の上宮(奥の院)
本体は山の頂上にあり、大岩に接して鎮座している。
少し大きめの石の祠(ほこら)に神様が祀られているのだが、石の扉が閉じられているので、中を見ることはできない。
祭神は下宮と同じく「大物主大神」と「崇徳天皇」となっている。
石の祠の裏手に回ると大岩に繋がっており、この祠がここに祀られた理由は、やはり「磐座(いわくら)信仰」のためだろうと推測できる。
下宮にある立て札には、次のようにある。
金比羅神社
当社の起源は昔百済の琳聖太子が山上に香をたいて北辰を祀った故事に由来するといわれています。(環境庁・長崎県)
しかし、上宮(山頂)の立て札にはこうある。
宝永2年(1705年) 修験者である吉祥院長慶(きっしょういんちょうけい)が 讃州象頭山より金比羅大権現を勧請し、この山の頂上に石窟をほり石祠を建て、飯縄(いづな)、愛宕の2神を祭ったものといわれます。これからこの山を金比羅山と呼ぶようになったものです。
(環境庁・長崎県)

大内義隆
起源の話だが、吉祥院長慶は1705年に金比羅大権現を勧請したとある。
一方、百済の琳聖太子だが、調べてみると、琳聖太子という人物は百済の史書(『三国史記』など)や日本の正史(『日本書紀』など)には一切登場せず、史学的には実在しない(後世に作られた伝説である)とのことだ。
そして琳聖太子は、室町時代に中国地方や九州北部で大勢力を誇った守護大名・大内氏が「みずからの始祖」とした伝説上の百済の王子である。
大内氏は、もともと周防国(山口県東部)の在庁官人(地方の実務官僚)を代々務めていた多々良(たたら)氏の一族。
名前に「タタラ(製鉄技術)」を冠していることから、古代に大陸から高度な技術を持って渡来した一族がルーツではないかと推測されている。
1551年、当主・大内義隆は日本にやってきた宣教師ザビエルに謁見。
山口での布教を公式に許可し、廃寺(大道寺)を教会として与えた。
これにより、山口は日本におけるキリスト教布教の最初期の中心地となり、南蛮文化も流入したという。
1557年に大内氏が毛利元就によって滅ぼされた際、高度な技術を持った職人(絵師、陶工、建築職人など)が四散した。
彼らは、南蛮貿易やキリシタン文化で急速に発展しつつあった肥前国(佐賀・長崎)の領主たちに召し抱えられたり、自由な気風を求めて長崎の港町へと移り住んだりしたとされている。
なるほど。
となれば、琳聖太子の故事に由来するという話の方が歴史としては古い。
金比羅神社は、1557年以降(大内氏滅亡後)に作られた山頂の岩窟の祠がスタートになり、その後、修験者の吉祥院長慶が1705年に「金毘羅さん」にした、という流れになる。
最初の祠に祀られたのは、妙見菩薩(みょうけんぼさつ)あたりだと推測される。
北辰(ほくしん)とは「北極星」のことであり、日本では、先述の大内氏をはじめとする武家や、海上安全を願う人々の間で特に熱狂的に信仰されていたからだ。
この北辰=妙見信仰の地であったことが、のちに航海の神である金比羅大権現を勧請する呼び水になったのだろう。

環境庁・長崎県
だいぶ込み入ってきたのでまとめたい。
西山の金刀比羅神社は、最初は大内氏ゆかりの北辰信仰(妙見信仰)によって建てられた山頂の祠がスタート。
その後、山伏の吉祥院長慶が1705年に金毘羅さんを勧請した。
金毘羅山の古名は「崇嶽(たかだけ)」、「瓊杵山(にぎさん)」と呼ばれていた。
これについては『長崎実録大成』『長崎名勝図絵』『長崎市史』等に載っているので間違いない。

社伝
「瓊杵山」という山の名前から、金比羅神社には天孫降臨の伝説があったと立て札に書かれているのだろう。
つまり、天孫降臨の「瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)」の文字が付けられた山の名前だからだ。
そして当時、長崎港のことは「瓊の浦(たまのうら)」と呼ばれていた。
これは平戸小屋の朝日小学校の校歌や市内高校の校歌などにも使われている。
長崎市伊良林にある「瓊浦(けいほ)高等学校」の名前もそうだ。
つまり、金毘羅山以前の山の名の瓊杵山(にぎさん)は、かなり知れ渡っていて、歴史に残っている名前なのである。
金比羅神社の現在の祭神は、大物主大神、崇徳天皇。
これは明治に行われた神仏分離の施策によるものだ。
結論とすれば、金比羅山には、現在「金比羅神(クンビーラ)」そのものは祀られていない、ということになる。
なんとなく、残念に思う。

山頂より

