対キリシタン八剱神社(東小島) 長崎10社巡り

現在の電車の終点は崇福寺だが、昔は正覚寺でそこから東小島の山手のほうに行くと、八剱神社がある。

祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと / 小碓ノ命)。

ヤマトタケル

これはとても珍しく、ここ以外で日本武尊を祀っているのは長崎市飯香浦町の「甑岩(こしきいわ)神社」だけだ。

神社名の八剱(やつるぎ)だが、三種の神器の一つである草薙剣の別名とされている。

神話では、スサノオノミコトが出雲で八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治した際、その尾から一振りの見事な剣が現れた。

この剣は、大蛇の「八つの頭と八つの尾」に宿っていた霊力を宿す神剣とされ、そこから「八剱(八つの霊力を持つ剣)」と呼ばれるようになったとされる。

とても勇ましい名前だが、この神社が建てられた意味は、キリシタンに対抗する為だったとされている。

八剱神社は日本全国に点在していて、全国の八剱神社の総本社的な存在と言えるのが、愛知県名古屋市の熱田神宮の境内にある「八剱宮」だ。

ここはきわめて格の高い別宮で、武家からの崇敬が非常に深く、織田信長や徳川家康も社殿の修繕や造営を行っている。

八剱とは「八岐大蛇から顕れた神剣(草薙剣)のことであり、あらゆる邪悪を払う無限の威力を持った守護の象徴」という意味になる。

スサノオとヤマタノオロチ

邪悪な長崎のキリシタン

長崎がポルトガル人に寄港地として提供され、キリシタンの町(南蛮貿易の拠点)となるのが1571年。

そして、キリシタンは神社仏閣を焼き払い、長崎市内はキリシタンの街になっていく。

しかし、豊臣秀吉の「伴天連追放令(1587年)」も、徳川幕府の「全国禁教令(1612年・1614年)」もまだ出されていない。

長崎開港は1571年なのだが、長崎を支配していたキリシタン大名「大村純忠(おおむらすみただ)」の領内(大村・長崎・浦上・茂木など)では、純忠自身の強い意志と宣教師の勧めで、領独自の「神社仏閣の破壊とキリスト教への強制改宗」が始まっていた。

1563年に純忠が洗礼を受けると、彼は領内の主要な社寺を焼き、神職や僧侶を追放、または改宗さた。

1567年には、「茂木(もぎ)」にキリスト教会が完成し、地域住民のキリシタン化が急速に進んでいた。

これに憂慮していたのが、当時の「深堀氏」。

東小島周辺は、大村領(長崎)の端に位置し、反キリシタンで仏教・神道を死守していた領主「深堀氏」の勢力圏との境界エリアになる。

深堀氏は強力な反キリシタンの先鋒だった。

「これ以上、異国の宗教(キリスト教)の勢力をこちら側(深堀領や肥後方面)へ侵入させない」という境界線(結界)をここに引いたのだ。

それが1568年に建てられた八剱神社だった。

八剱神社(東小島)

神社という要塞

八剱神社(東小島)

この神社の当初は場所が少し違っていた。

永禄十一年(1568)、肥後・阿蘇宮の東源左衛門が現在地より少し上方の神南(かむなみ)に、日本武尊を勧請して祀った。

その当時、阿蘇神社は九州の総鎮守を自負する肥後・阿蘇宮だった。

国家的な禁教令がないから「自分たちの手で神の領域を守るために、自発的に長崎の最前線へ乗り込んで神社を建てた」というのが、東源左衛門の行動の真相である。

八剱神社がキリシタンの焼き討ちを免れたかと言えば、最初の社地「神南(かんなみ)」が要塞(聖域)だったからである。

東源左衛門が最初に日本武尊を祀った「神南」という場所は、現在の八剱神社がある場所(東小島の中腹)よりも、さらに山深い高台(現在の崇福寺の裏手から風頭山へ続く斜面のどこか)であったと伝えられている。

長崎の街中心部は大村純忠の領地(のちにイエズス会に寄進)となりキリシタン化が進んだが、山深い境界地域はまだ彼らの統治が完全に及んでいない「グレーゾーン」だった。

簡単には軍勢が攻め込めない、あるいは容易に近づけない隠れ里のような高台にひっそりと(しかし強固に)拠点を築いたため、キリシタンの過激派による安易な焼き討ちから物理的に免れることができたのだ。

このキリシタン時代を「地理的優位」「深堀氏の盾」「自前の防衛力」で生き抜いたからこそ、時代が江戸時代へと変わり、キリスト教が禁止された寛文元年(1661年)になって、二代目の東新三郎は堂々と長崎奉行の許可(お墨付き)をもらい、現在の東小島の地へと社殿を堂々と遷座させ、「八剱神社」として地域の公的な守り神になることができたのである。

なので、八剱神社は長崎の「旧市街・天領エリア」に限定した中で、キリシタン化以前の姿を残す最古格とされている。

八剱神社(東小島)

高島秋帆の参画

幕末、長崎が生んだ天才砲術家であり、日本近代馬術・砲術の祖である高島秋帆(たかしましゅうはん)とも深い縁がある。

天保11年(1840年)に八剱神社の社殿改修が行われた際、高島秋帆がこの改修プロジェクトに参画。現在も本殿には、彼の本名である「高島四郎太夫」の名が記された棟板(むないた)が納められており、激動の幕末前夜の足跡を伝える貴重な歴史的資料となっている。

 

高島秋帆

 

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