河童の水神神社(本河内) 長崎10社巡り

本河内の地勢と由緒

水神神社の鎮座地は、長崎市本河内の本河内低部ダム(水源地)のすぐ近く、中島川沿いにある。

「本河内(ほんごうち)」は、江戸時代初期の絵図にすでに「本河内村」としての記載が見られる古い地名である。

「河内」は山に挟まれた川沿いの谷あいの平地を意味し、頭に「本」がついているのは、長崎の街のシンボルである中島川の「本流(源流)」が流れる谷筋であることを指している。

この神社の由緒によると、寛永年間に出来大工町に水神を奉斎したのが始まりとされる。

その後、炉粕町、さらに銭座川へと移転を重ね、大正時代に現在の本河内水源地に近い場所へと遷座した。

元々は渋江家の私神(一族の守護神)が始まりであり、最初は一族のためだけに建てられた祠が、やがて地域全体の神社へと発展していった。

これは日本の神社信仰における、一つの典型的な形である。

この渋江家は、古代から中世にかけて、川の流れを制御する、井戸を掘る、港を作るなどといった特殊な治水・土木技術を持っており、その技術自体を「家業」として代々受け継いできた集団(水族)であったとされる。

創祀者・渋江公豊と家系伝承

神社の由緒によれば、創建年は承応元年(1652年)頃、または明暦元年(1655年)とされ、創祀者は渋江公豊(しぶえ きんとよ)である。

渋江公豊という人物が江戸初期の長崎に実在し、街の発展(給水や水害防止)を願って水神様を祀り、それが現在の本河内へと繋がっているのは歴史的事実である。

また、渋江家には非常に格式高い家系伝承が残されている。

その祖先は、第30代・敏達(びだつ)天皇の孫にあたる栗隈王(くりくまおう)の後裔と称している。栗隈王は飛鳥時代に筑紫率(つくしのかみ/後の大宰帥)を務め、水族(水に関わる人々や職能集団)を統率したという伝承を持つ人物である。

その後、子孫が肥前国橘島(現在の佐賀県武雄市橘町周辺)の渋江の地を領したことから「渋江」を名乗るようになったという。

その後の渋江家の世俗の生業は定かではないが、この水神様に関しては、代々その子孫である渋江家が宮司(神職)を世襲して守り続けてきた。

長崎開港と神社仏閣の再興

長崎の開港は元亀2年(1571年)とされている。その後は貿易港として発展するが、大村藩(大村純忠)の後押しもあり、一時はイエズス会に寄進されてキリスト教の街(教会領)になっていった。

その際、長崎にあった古い神社仏閣はことごとく破壊されている。

幕府による禁教令の後、長崎に神社仏閣が本格的に再興されるまでには70年ほどの空白期間があった。

水神神社の創建が承応元年(1652年)頃、または明暦元年(1655年)という年代になっているのも、こうした歴史的背景があるからだ。

長崎の神社仏閣の多くは、寛永年間に諏訪神社が再興された後、まるで雨後の筍のように次々と創建・復興されていった。

それほどまでに、かつてのキリシタン勢力の存在は強力、恐怖であり、幕府や地方官にとって警戒すべき対象であった証拠とも言える。

長崎港の埋め立てと水不足の歴史

現在の長崎市中心部の多くは、浦上川や中島川の入江を埋め立てることで拡張されていった。

最初は細長い岬にすぎなかった土地が、段階的に埋め立てられて現在の長崎の街並みが出来上がったのである。

長崎が発展し、人口が増えるのは喜ばしいことであったが、最大の死活問題となったのが「水不足」であった。

海を埋め立てた土地であるため、井戸を掘っても出てくるのは海水ばかりだったからである。

この危機を救ったのが、長崎の町年寄であった倉田次郎兵衛(くらた じろべえ)である。

彼は莫大な自費を投じ、中島川の上流(現在の八幡町付近)から木樋(木の管)や竹樋を地中に埋め、市街地の約30ヶ町へ清水を引く水道を完成させた。

これが延宝元年(1673年)に始まった、日本初の本格的な都市上水道「倉田水樋(くらたすいひ)」である。

これによって都市の渇水は一時的に大きく緩和された。

渋江家が創祀した水神様が、元文4年(1739年)にこの「倉田水樋」の供給源付近(八幡町)へ移転したのも、まさに長崎の命綱である水源の傍らでその永続を祈るためであった。

その後、時代が進み、近代上水道への脱皮とともに大正時代になって本河内水源地(ダム)へと再び移転したのも、常に長崎の水源と共に歩んできたこの神社の歴史を物語っている。

開港時の長崎

水神神社の御祭神

主祭神:彌都波能賣大神(みずはのめのおおかみ)

神話において伊邪那美命(イザナミ)から生まれた水の女神であり、祈雨(雨乞い)や水源守護の神として篤く信仰されている。

相殿神:天御中主神、国狭槌命、豊玉彦命、豊玉姫命、速秋津彦神・速秋津姫神 など
水や海洋、天地の根源に関わる神々が祀られている。

また、水難除けの御神徳として「兵統良神(ひょうすべらかみ/カッパ)」の信仰も息づく。

相殿神には、日本神話の重要な神々が名を連ねている。

天御中主神は宇宙の根本をなす天地開闢の主宰神、国狭槌命は大地の形成を象徴する神、豊玉彦命・豊玉姫命は海の神とその娘(美しい海の女神)であり、速秋津彦神・速秋津姫神は川と海が交わる「水戸(みなと)の神」である。

一見すると地方の神社としては破格とも思える豪華な顔ぶれだが、水は豊かな国土(大地や山)から湧き出て海へと還るものであるため、水の循環と国作りを包括するこれらの神々を祀るのが最善であったのだろう。

河童伝説と歴史の背景

水神神社といえば、何と言っても「河童伝説」と拝殿裏にある「かっぱ石(川立神)」が有名である。

かっぱ石(どんく石)の伝承
昔、中島川の周辺に人が増えて川が汚れるようになると、清流にしか住めない河童たちが人間に嫌がらせをするようになった。これを見かねた神官(渋江家の一族)が、河童たちを懲らしめるために一芝居打つ。
河童たちを宴会でもてなした際、神官は自分には柔らかい本物のタケノコを、河童たちには硬い古い竹の輪切りを出した。平気な顔で竹を噛み砕く神官の姿(実際はタケノコ)を見た河童たちは、「人間は何て歯が強いのだ」と恐れ入り、それ以来いたずらを止めて神官を慕うようになったという。
その後、神官が献立を書いた紙を石の上に置いておくと、翌朝には河童たちが魚などの材料を届けてくれるようになったという、微笑ましい共生の民話が残されている。

雨乞い占い
かつて雨水だけが頼りだった時代、日照りが続くとこの神社で雨乞いが行われた。神官はこの「かっぱ石(当時は長崎弁でカエルを意味する『どんく石』とも呼ばれた)」に生える苔の色や付き具合を見て、雨が降るかどうかを占ったと伝えられている。

河童文字の謎
宮司を代々務める渋江家には、かつて河童がいたずらの詫びとして残していったという「河童文字(カッパ文字)」の神印(伝承)が伝わっている。この解読不能な不思議な文字の秘伝は、現在の水神神社の授与品(水難除けの黒札)の基となっている。

河童文字

伝承への考察

河童の伝承、どんく石の占い、河童文字と、境内は非常に賑やかな伝説に彩られている。

河童の存在に関しては、子供たちが危険な川に近づかないようにするための「水難除けの戒め(脅し)」としての側面が大きかったのだろう。

それだけでなく、民俗学的な背景を覗くと、戦国時代の落武者が川伝いに逃げて潜んでいた姿や、大昔に百済から渡来した人々の記憶が投影されているという説もある。

現在も九州や長崎には平家の落人伝説が点在しているため、そうした歴史の影が河童という形に変化した可能性は十分に考えられる。

祟りや妖怪たちの存在は、何かしらの理由があって生まれ、人々に伝わっていく中で変容していくものが多いからだ。

また「河童文字」の正体については、陰陽道や密教、道教における「符字(ふじ)」や「霊符(お守りの文字)」の一種とも言われている。

「神代文字(じんだいもじ)」もまた、「古代の日本にも独自の文字があった」と主張したい後世の人々の願望が生んだものかもしれないが、真偽の先にあるロマンこそが面白い。

水の神様といえば「龍」が相場であるが、ここ本河内の水神神社には、河童やカエル(どんく)といった泥臭くも身近な生き物による雨乞いがあり、それがかえってリアルな生活感を醸し出している。

長崎の深刻な水不足と共に信仰されてきた神様であるが、400年以上経った今もなお大切にされているということは、それだけ長崎の人々にとってなくてはならない、切実で尊い存在であった証と言えるだろう。

本河内の水神神社
https://artworks-inter.net/2020/01/04/%e6%9c%ac%e6%b2%b3%e5%86%85%e3%81%ae%e6%b0%b4%e7%a5%9e%e7%a5%9e%e7%a4%be/

本河内水源地 水神神社の河童の正体
https://artworks-inter.net/2021/01/08/%e6%9c%ac%e6%b2%b3%e5%86%85%e6%b0%b4%e6%ba%90%e5%9c%b0%e3%81%ae%e6%b0%b4%e7%a5%9e%e7%a5%9e%e7%a4%be%e3%81%ae%e6%b2%b3%e7%ab%a5%e3%81%ae%e6%ad%a3%e4%bd%93/

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