高麗と伊勢宮(伊勢町) 長崎10社巡り

伊勢宮神社は、諏訪神社、松森神社(天満宮)とともに長崎三社と呼ばれ、長崎県内で最初に人前結婚式が行なわれたことでも知られる神社だ。

伊勢宮略歴

當伊勢宮は今を去る三百六十余年前の寛永六年に天台宗修験南岳院存祐と云う人が長崎の繁栄天下泰平諸人安全祈願の為に外宮長官檜垣常晨の許状を得て今の地に内宮を鎮座奉斎し後、寛永十六年に幕府及伊勢神宮に請ふて外宮太神宮を併せ鎮座奉祀して此の年に長崎奉行を始め市民一般の寄付に依り宮殿が建てられ伊勢宮と称せられるやうになったのであります。(略)

 

つまり、寛永六年に、唐津出身の天台宗修験南岳院存祐と云う人が、今の地に内宮を鎮座し、幕府と長崎奉行が作ったとある。

幕府と長崎奉行が作ったとあれば、政治的な色合いがかなり強い神社だろう。

 

 

その当時の長崎は、キリスト教であふれ、神社仏閣の神主や僧侶たちは、逃げ回っていて、修験者のような武闘派でなければ、神主の成り手はなかったと思われる。

明暦元年(1655年)に伊勢神宮の外宮の神(豊受姫大神)を勧請して宮殿が創建され、「伊勢宮」となった。

そして新高麗町という町名が、伊勢町になったのは延宝8年(1680)のことである。

伊勢宮が出来たから伊勢町という名前になったのである。

 

高麗という名称

江戸時代には、朝鮮半島の高麗という国はなくなり、1392年に国号が「朝鮮」となっている。

しかし日本の一般庶民や武士の間では、半島のことを「高麗」と言い表す方が馴染み深かったので、朝鮮のことを高麗と呼び続けていたのだ。

高麗町というのは現在の万屋町・鍛冶屋町周辺になる。

16世紀末、豊臣秀吉による文禄・慶長の役(朝鮮出兵)の際、九州の諸大名によって連れて帰られた朝鮮半島の陶工や技術者、人々の一部が長崎に移住した。

彼らが最初に集まって住んだ場所が、現在の崇福寺通りや鍛冶屋町、万屋町の一角になる。

内町の高麗町にいた人々は、後に中島川の上流にあたる地域(現在の新大工町の西側、麹屋町の向かい付近)へと移住することになる。

 

新高麗町の成立

旧来の高麗町から移ってきた地であることから、この新しい居住地は「新高麗町」と呼ばれるようになった。

現在も中島川に架かる「高麗橋(こうらいばし)」(伊勢町と八幡町を結ぶ橋)は、この新高麗町があったことに由来してる。

秀吉の朝鮮出兵の時代は、朝鮮半島は朝鮮(李氏朝鮮)だが、前述の通り日本では高麗と呼び続けている。

朝鮮人とキリシタンと伊勢宮

この三つは密接な関係がある。

歴史的流れを書く。

1571年(元亀2年)深い入り江が続く静かな漁村の長崎を、キリシタン大名であった大村純忠が正式にポルトガル船の入港地と定めた。

純忠は長崎と茂木の地をイエズス会に「寄進」して、長崎は一時期、教会が支配する「イエズス会領」という極めて特異なキリシ
タン都市となる。

1570年代〜1580年代前半
大村純忠の改宗政策と宣教師の要請により、地元の日本の武士・領民が主導して領内の神社や寺を焼き討ち・破壊する。

1587年 (天正15年)
この状況に危機感を抱いたのが、豊臣秀吉は長崎をイエズス会から没収して「天領(豊臣家の直轄地)」とする。

1592年文禄・慶長の役(朝鮮出兵)
この戦争以降、多くの朝鮮人が捕虜として日本へ連行される。その後、洗礼を受けた人々が長崎の中心部へ集まり始める。

1610年代〜禁教令の本格化と殉教
江戸幕府による激しい弾圧が開始。日本人信徒も朝鮮人信徒も共に、西坂などで殉教する。

ポルトガル人を町中から隔離し、密航や布教を防ぐために、1636年(寛永13年)、人工の島「出島」ができる。

 

なかなか激しい歴史の流れである。

朝鮮人とキリシタンの関係だが、朝鮮出兵以降に長崎で暮らしていた朝鮮人の多くはキリシタンとなっていた。

最盛期には数千人規模の朝鮮人キリシタンが長崎に暮らし、彼ら独自の聖母コンフラリア(信仰信心会)を結成するほど敬虔で、組織的なコミュニティを作っている。

そのせいで、長崎の伊勢宮が建てられた場所は、16世紀後半のキリシタン全盛期に建てられた「サン・ラザロ病院(教会)」、あるいは「サン・ジョアン教会」の跡地であるという説が有力だ。

徳川家康の時代になると禁教は徹底されて、教会は打ち壊され神社が立つようになった。

そして1655年、教会跡に伊勢宮が建てられたという訳である。

新高麗町も延宝8年(1680)伊勢町になった。

 

伊勢宮神社の神々

主祭神
天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)
豊受姫大神(とようけひめのおおかみ)

相殿神
須佐之男命(すさのおのみこと)
八幡大神(はちまんおおかみ)
神功皇后(じんぐうこうごう)

これらの神様は、日本の神話の中では主役級の神様たちである。

オールスターをそろえて、伊勢宮神社はスタートした。

 

境内の見どころと特徴

「大一」の神紋
ご社殿の幕や随所に見られる「大一(だいいち)」の文字は、お宮の紋章(神紋)です。これは伊勢神宮の古い神紋を受け継いだものと言われており、道教的な影響も色濃く残す独特の趣があります。

格式を示す5本線の外壁
境内を囲む黄土色の外塀には5本の白い線が引かれています。これは神社の格式の高さ(位の高さ)を表すものとされています。

巨大な御神木と楠稲荷神社
境内右手には真っ赤な鳥居が印象的な「楠稲荷神社」があり、その傍らには巨大なクスノキが立っています。このクスノキは江戸時代の火災(寛文長崎大火など)で焼けたとされる空洞(洞穴)があり、かつてお乳の出が悪い母親が米のとぎ汁をかけて祈るとお乳が出るようになったという逸話から、今でも安産祈願や子宝を願う参拝者が多く訪れます。

 

伊勢宮に参拝すると、その格式の高さがよくわかる。

ただ、境内の左手には大きなビルが建ち、その荘厳さが損なわれている気がする。

高麗という名前と、伊勢という名前。

長崎のキリシタン史にも欠かせない神社である。


「大一」紋章の謎を解く 伊勢宮神社
https://artworks-inter.net/2020/02/27/%e3%80%8c%e5%a4%a7%e4%b8%80%e3%80%8d%e7%b4%8b%e7%ab%a0%e3%81%ae%e8%ac%8e%e3%82%92%e8%a7%a3%e3%81%8f%e3%80%80%e4%bc%8a%e5%8b%a2%e5%ae%ae%e7%a5%9e%e7%a4%be/

長崎の朝鮮人たちとキリスト教 アートワークス
https://artworks-inter.net/2018/08/20/

 

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