星を祀る道教の西山神社 長崎10社巡り
長崎10社巡りというのは「長崎市単立神社連合会」という団体が運営しているのだが、これまで西山神社を含めた11社巡りだったのが、神社の追加にともなう「入れ替え」が起こり、2026年は西山神社を除く「10社巡り」となった。
除かれた理由として、西山神社は180段を超える非常に長くて急な石段を登る必要があり、高齢の方や県外からの観光客に配慮したという。

西山神社 所在地 長崎県長崎市西山本町8-18
お諏訪さんを抜けて少し行くと、西山神社の一之鳥居が見える。
長崎県庁から見ると東側にあるのに、何故西山と呼ぶのかと不思議に思ったが、戦国時代の長崎氏の居城である鶴城から見たら、西側にあったからという説明を読み納得した。
案内板には下記のことが書かれている。
長崎聖堂の学頭で唐通事であった盧草拙が中国から持参し、寛文年間(1660年代)から祀っていた北辰妙見尊星と、諏訪神社吟味役・村田四次郎が祀っていた妙見尊神を祭るために、長崎奉行石河土佐守の許しを得て1854年(享保4年)に社殿を完成し、西山妙見社とよばれました。
明治2年、神仏混淆禁止令により、西山神社と改称された。地元の人からは「西山の妙見さま」と呼ばれ、親しまれています。
わかるようでわかりにくい文章なので解説をする。
北辰とか妙見という言葉は、道教の言葉である。
盧草拙が祀った「北辰妙見尊星」は、中国の道教では「玄天上帝(げんてんじょうてい)」や「真武大帝(しんぶたいてい)」と呼ばれる、北極星を神格化した道教の最高峰の神様だ。
盧草拙が建てた当初のお堂は「妙見社」や「妙見宮」と呼ばれていた。
純粋な日本の神社とは異なり、創建当時の西山妙見社は唐通事が深く関わっていたため、目に見える部分に道教や中国文化の色が濃く出ていた。
なので道教の北方の守護神「玄武(亀と蛇が合体した神獣)」の信仰から、蛇や龍の絵・彫刻が好まれた。
当時、江戸幕府はキリシタンの取り締まりを徹底しており、宗教施設の設立には非常に厳格で、長崎の中国人(唐人)は「唐寺(崇福寺や福済寺など)」でお参りすることが決められていた。
盧草拙は唐通事(幕府の役人)だったので、私有地とはいえ、純粋な中国の「道教の廟(びょう)」をそのまま建ててしまうと、幕府の宗教政策上、問題になる可能性があった。
そのため、当時、酒屋町の村田四郎次という人物も別の妙見神を祀っていたので、その妙見神と抱き合わせで、長崎奉行の許可をもらい、あくまで「日本の神仏信仰の枠組み(妙見社)」として申請・創建したということである。
西山神社は、「中身や見た目は道教(中国の星信仰)の雰囲気を色濃く残しつつも、形式としては日本の妙見信仰のお堂として建てられた」というのが最も正確な姿とされている。
しかし、現在の社殿に道教の雰囲気を感じることはほとんどなかった。

祭神
創建時の祭神は、「北辰妙見尊星(ほくしんみょうけんそんしょう)」および「妙見尊神」、いわゆる「妙見様(妙見菩薩)」だった。
そのため、当時は神社ではなく「西山妙見社」や「妙見宮」と呼ばれていた。
その後、明治の「神仏分離(神仏混淆禁止令)」によって仏教色の強い「妙見菩薩」のまま祀ることができなくなったため、神道の造化三神(ぞうかのさんしん)に改められ、社名も現在の「西山神社」となった。
なので、現在の西山神社の祭神は天之御中主大神、高皇産霊大神、神皇産霊大神の造化三神である。
近世において「天の中央の神」ということから、北極星の神格化である妙見菩薩と習合されるようになったと考えられている。




西山神社には、緋寒桜(長崎市指定文化財)、「椎の木の水」といわれる長崎の名水の一つが注がれている手水舎、「長崎ザボン」の最初の木がある。
また神社の入口横に妙見茶房という喫茶店がある。
この神社は石段が多く、確かに高齢者には大変だろう。
ただ、神社は辺鄙なところや、高所の森の中という場所も多く、信仰のため参拝をするのは、運動になるので体にいいと言われている。
確かに四国めぐりなどの巡礼は、心身ともにいい影響があるとされている。
巡礼は大昔からの、庶民の健康法だったのである。
巡礼するから健康になったのか、健康だから巡礼ができるのか。
さてどちらだろう。

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