不安しか見えない20億円の稲佐山開発

20億円の「動くガラス箱」と、懲りないお役所仕事の結末

稲佐山の麓、稲佐地区で育った私にとって、小中学校時代の遠足といえば決まって稲佐山だった。1960年代からこの山を見上げ、共に育ってきた身として、近年の無計画でいい加減な開発の連続には、ただただ深い落胆を覚えるばかりだ。

長崎の夜景といえば、誰もが思い浮かべるのが稲佐山である。「世界新三大夜景」だの「1000万ドルの夜景」だのと、観光パンフレットを開けば誇らしげな美辞麗句が並んでいる。だが、その華やかな光の足元で、長年にわたり繰り広げられてきた行政主導の開発劇を冷静に眺めてみると、そこには美しさのかけらもない「お粗末な現実」が横たわっている。

一言で言えば、稲佐山開発の歴史は「行政が手を出してはコケる」の繰り返しだ。そしていま、その不安の集大成のような光景が山頂と中腹に広がっている。
 

20億円で買った「わずか500メートル」の乗り物

記憶に新しいのが、2020年に鳴り物入りで運行を開始した「スロープカー」である。前市長である田上富久氏の時代にゴーサインが出され、投じられた税金は実に約20億4400万円。

20億円という金額の重みを、どれだけの人が実感しているだろうか。公立の小学校を丸ごと一校、ピカピカに新築できる金額だ。長崎市民一人あたりに換算すれば約5000円、4人家族なら2万円を「強制徴収」されて差し出した計算になる。その大金を注ぎ込んで作ったのが、中腹駐車場から山頂までの、たった500メートルの斜面を登るモノレールである。

市のお偉方が描いた青写真は実に能天気だった。「フェラーリを手がけた有名デザイナー(奥山清行氏)に頼んで全面ガラス張りのスタイリッシュな車両を作れば、乗ること自体が全国的な観光名物になる」「山頂の渋滞を中腹で食い止め、ピストン輸送すれば一石二鳥だ」と。

だが、現実はどうだ。観光客の目線に立てば、中腹までわざわざマイカーやバスで行き、そこでわざわざスロープカーに乗り換える理由などどこにもない。街中(淵神社)から直行できるロープウェイに乗るか、タクシーでさっさと登るほうがはるかに快適だからだ。結果として、スロープカーは「中腹駐車場に車を停めた一部の人」だけが使う限定的な乗り物にとどまった。

しかも、海風が吹きつける過酷な山肌に特注の高精度メカを走らせているのだから、維持費とメンテの手間は雪だるま式に膨らむ。かつて1990年の旅博に合わせて作られ、赤字を垂れ流した末に撤去された「スカイウェイ」の教訓など、何ひとつ活かされていない。まさに歴史は繰り返す、である。

山頂の飲食店は「全滅」――需要を読めないお役所感覚

スロープカー以上に滑稽なのが、山頂の飲食ビジネスの迷走ぶりだ。

山頂展望台にあったレストランは、鳴り物入りでジャパネット傘下の企業が参入したものの、採算悪化により相次いで撤退。一時期、山頂の飲食店が全滅するという異様な事態に陥った。

なぜこんなことが起きるのか。理由は至極単純で、行政とコンサルタントが描く「机上の空論」と、実際の客の行動パターンが180度ズレているからだ。

稲佐山に来る客の大多数は、「山頂で30分ほど夜景を眺め、記念写真を撮ったら、食事は街中の思案橋や浜町、新地中華街で楽しみたい」と考えている。山頂の吹きさらしの場所で、わざわざ高額なディナーコースを優雅に味わいたい層など、ごく一握りしかいない。夜に酒を飲めば帰りの足(代行やタクシー)に困るような場所に、誰が日常的に通うというのか。

「夜景が綺麗だから、高級レストランを置けば儲かるだろう」という浅薄な発想。そして、それが立ち行かなくなると「民間の経営努力が足りない」とばかりに次の事業者を公募する。自分たちが敷いたアクセスの悪さや料金設定のチグハグさには目をつぶり、根本的な構造欠陥を放置したまま、看板だけを掛け替えようとしているのだ。
 

スタジアムシティ直結ロープウェイという「夢物語」の暗礁

民間主導で誕生した長崎スタジアムシティが、夏祭りやクラフトビール、アニメ企画など矢継ぎ早にコンテンツを繰り出し、巨大な集客装置として動き出す一方で、行政と絡んだ稲佐山連携は早くも暗礁に乗り上げている。

スタジアムシティから稲佐山山頂へロープウェイを直接引っ張るという「延伸構想」が持ち上がったが、これも調べれば調べるほど絶望的な壁にぶち当たっている。浦上川と高架道路を飛び越えるために山腹へ巨大な支柱鉄塔を建てねばならず、景観は台無し、初期費用だけで35億円超という試算が飛び出した。

スロープカーに20億円をドブに捨てたような長崎市に、さらに数十億円を拠出する余力もなければ、市民の納得が得られるはずもない。強風が吹けば止まる長距離ロープウェイに巨費を投じるリスクを前に、計画は事実上の膠着状態に陥っている。

「稼ぐ感覚」のない人たちに街づくりは無理である

そもそも、数年ごとに福祉や税務へと部署を転々とする公務員組織に、「ビジネスとして人を集め、稼ぎ、再投資する」という感覚を求めること自体が筋違いなのだ。彼らは「予算をいかに使い切るか」のプロであっても、「投じた資本をどう回収するか」のリアルな痛みを背負ったことがない。失敗しても給料が減るわけではなく、責任は「前市長の判断」や「時代の変化」という便利な言葉で煙に巻かれていく。

民間が必死に知恵を絞り、自腹を切ってリスクを取っている横で、行政は立派な報告書と数字合わせのスタンプラリーでお茶を濁す。

稲佐山に必要なのは、20億円の動くガラス箱でも、35億円の夢のロープウェイでもない。「なぜ人が山に登り、そこで何を過ごしたいのか」という、泥臭くリアルな生活者目線だ。
 
半世紀以上この山を見つめ続けてきた者からすれば、行政がその当たり前の視点を取り戻さない限り、夜景の美しさとは裏腹に、長崎の街の未来はどこまでも暗闇のままだと思えてならない。
 
 
 

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