五島という地名の由来|なぜ「五島」と呼ばれるようになったのか

五島白浜
長崎県の西の海に浮かぶ五島列島。
青く美しい海、数多くの教会、潜伏キリシタンの歴史、そして新鮮な魚。
長崎県人にとってはよく知られた島々だが、改めて考えてみると、
「なぜ“五島”という名前なのだろう」
という疑問が浮かんでくる。
普通に考えれば、
大きな島が五つあるから五島
となりそうである。
確かに現在の五島列島は、中通島、若松島、奈留島、久賀島、福江島の五つの主要島を中心に、多数の島々から構成されている。
しかし歴史を調べてみると、それほど単純な話でもない。
昔の「五島」が指した島の範囲は時代によって変わっており、かつては宇久島を主要な五島の一つとして数えた時代もあった。
つまり、
最初から現在の五つの島を数えて「五島」と名付けた
とは簡単には言えないのである。
古代には「五島」ではなく「値嘉島」と呼ばれていた
五島列島には、もっと古い名前があった。
値嘉島(ちかのしま)
である。
『古事記』には「知訶島」として登場し、『肥前国風土記』にも「値嘉郷」の名が記されている。
長崎県の資料でも、五島列島は古代には「値嘉島」と呼ばれていたとしている。
つまり「五島」という地名は、古代から使われていた名前ではない。
それ以前には、広い島々の地域を「ちか」と呼ぶ世界があったのである。
小値賀という現在の地名にも、その古い「ちか」の名残を見ることができる。
遣唐使にとって五島は「日本最後の港」だった
五島の歴史を考える上で欠かせないのが、遣唐使である。
奈良・平安時代、日本から唐へ向かう遣唐使船は、五島列島を重要な中継地点として利用した。
特に福江島の三井楽周辺は、東シナ海を横断する前の日本最後の寄港地として知られている。
804年には、最澄や空海を乗せた遣唐使船も五島を経由して中国へ向かった。
現在なら飛行機で数時間の距離だが、当時の木造船にとって東シナ海横断は命がけである。
五島は日本の「西の端」ではなく、
大陸へ向かうための日本最後の玄関口
だったのである。

五島鬼岳
「五島」という名前はいつ現れたのか
長崎県の資料によれば、「五島」という呼び名が使われるようになったのは、おおむね平安時代末期ごろとされている。
興味深いのは、
日本へ渡ってくる中国人から「五峰」あるいは「五島」と呼ばれるようになったといわれている
ことである。
ここに、この地名を考える面白さがある。
五島列島を海から眺めると、いくつもの島の山々が水平線上に連なって見える。
陸に住んでいる人間は島を一つ一つ数えるが、海を渡る船乗りにとって重要なのは、遠くから見える山の形である。
山や岬は現在でいう航海標識だった。
そのため、大陸側の船乗りたちが島々の連なる姿を「五峰」と表現した可能性が語られている。
本当に「五峰」から「五島」になったのか
ここは少し慎重に考えたい。
「中国人が五峰と呼び、それが日本へ逆輸入されて五島になった」
と説明すると、実に面白い。
しかし、それを完全に証明する史料がそろっているわけではない。
『日本歴史地名大系』では、「五島」の意味を文字どおり五つの大きな島の総称と考える可能性も示されている。また中世の史料にはすでに「五島」という呼称が確認できる。
したがって、
「主要な島が五つあったから五島」
という説と、
「大陸側の人々が五峰・五島と呼んだことから定着した」
という説の両方を考えておくのがよいだろう。
地名というものは、後世に一つのきれいな説明が作られてしまうことが多い。
実際には、海を渡る中国人、日本人の船乗り、島に暮らす人々など、さまざまな呼び方が重なって現在の名前になった可能性もある。
「五つの島」も時代によって変わっている
もう一つ面白いことがある。
現在、五島列島の主要な五島といえば、
中通島、若松島、奈留島、久賀島、福江島
と説明されることが多い。
ところが以前には、
宇久島、中通島、若松島、奈留島、福江島
を五つの島とする数え方もあった。
つまり、
「五島だから、この五つの島」
という説明自体が時代によって変化しているのである。
そう考えると、「五島」という名前を現在の地図だけから説明するのは少し危険である。
北の宇久島や小値賀島も、古代から大陸との交流に深く関わってきた島々であり、五島地域の歴史を考える上では欠かすことができない。

五島の夫婦岩
宇久島から五島氏が生まれた
五島の歴史でもう一つ重要なのが宇久氏である。
五島家の伝承では、源平の争乱を逃れた家盛が宇久島へ渡り、領主となったことを始まりとしている。
その子孫である宇久氏は次第に勢力を南へ伸ばし、福江島へ進出して五島統一を進めた。
そして豊臣秀吉の朝鮮出兵の時代、第20代宇久純玄が宇久姓から五島姓へ改めたとされている。
ここでも面白いことが分かる。
五島氏がいたから五島という地名になったのではない。
順番は逆である。
五島という地域名が先に存在し、その地域を支配するようになった宇久氏が「五島氏」を名乗った
のである。
これは大村と大村氏の関係にも似ている。
明の海商・王直と五島
戦国時代になると、五島は再び国際貿易の重要拠点となる。
そこで登場するのが、明の海商**王直(汪直)**である。
王直は明の海禁政策の中で東アジアの海上交易を行った人物で、後には倭寇の有力者として知られるようになった。
興味深いのは、王直の号が、
「五峰」
だったことである。
王直は五島や平戸を拠点として活動し、五島では領主から土地を与えられ、唐人町が形成されたと伝えられている。現在の五島市に残る六角井も、王直の時代の中国人との交流を伝える遺跡とされている。
ただし、
王直が「五峰」と名乗ったから五島になった
という意味ではない。
「五島」という呼称は王直より前から存在している。
むしろ王直の存在は、五島が昔から中国大陸と結びついた海の世界にあったことを象徴する出来事として見るべきだろう。
朝鮮半島との交流も深かった
五島の船は中国だけを向いていたわけではない。
室町時代には、五島の豪族たちが朝鮮との交易にも関わっていた。
1471年に成立した朝鮮の『海東諸国紀』には、五島地域の豪族と李氏朝鮮との交易についての記録が残されている。
つまり中世の五島は、
日本の離島
というより、
中国・朝鮮・九州を結ぶ東アジアの海上交通圏の一部
だったのである。
現在の県境や国境だけで古代・中世の歴史を見ると、この島の本当の姿を見失ってしまう。
江戸時代には北と南で藩が分かれた
江戸時代になると、現在の五島列島は一つの藩にまとまっていたわけではない。
南側の多くは福江藩、つまり五島藩の領地となった。
一方、小値賀島など北部には平戸藩領となった地域もあった。
このように「五島」という地域の範囲は、時代や政治的な支配によって微妙に変化してきた。
だからこそ、
「五島とは、この五つの島です」
と現在の地図だけを見て説明すると、長い歴史の一部分しか見えなくなってしまうのである。
結局、五島という名前はどこから来たのか
整理すると、確実に言えるのは、
古代にはこの地域が値嘉島と呼ばれていたこと。
そして平安時代末期ごろから、五島という呼び名が使われるようになったことである。
その由来については、
五つの主要な島があったから五島と呼ばれた
という考え方がある。
一方で、
中国から来航した人々が「五峰」あるいは「五島」と呼んだことに由来する
という説も伝えられている。
どちらか一つに決めつけるだけの材料は、現在のところ十分ではない。
しかし、一つだけははっきりしている。
五島という名前は、
日本列島の端にある離島だけを見て生まれた名前ではなく、東シナ海を行き交う人々の歴史と深く結びついている
ということである。
子供たちに話すなら
五島列島は、昔から「五島」と呼ばれていたわけではない。
古代には値嘉島と呼ばれ、遣唐使が中国へ渡る前に立ち寄る、日本最後の港だった。
その後、平安時代の終わりごろから「五島」という呼び名が使われるようになる。
大きな島が五つあったから「五島」になったという説もあれば、中国からやって来た船乗りたちが島々の山を見て「五峰」「五島」と呼んだことから広まったという説もある。
本当のところは、まだ完全には分かっていない。
しかし昔の五島は、日本の端ではなかった。
遣唐使、中国の商人、朝鮮との交易、宇久氏、王直――。
多くの人々がこの海を行き来していた。
現在の地図では西の果てに見える五島だが、海を道として考えれば、ここはむしろ日本と東アジアを結ぶ玄関口だったのである。
「五島」という二文字の向こうには、千年以上にわたって東シナ海を渡った船乗りたちの歴史が見えてくる。

五島隠れキリシタンの墓
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