島原という地名の由来|なぜ「島原」と呼ばれるようになったのか

長崎県人が「島原」と聞けば、まず思い浮かべるのは雲仙岳と温泉だろう。
島原城や湧水の町としても知られ、歴史好きなら島原の乱、キリシタン迫害の舞台となった雲仙地獄、さらに古代史に興味があれば四面宮の信仰など、実に多くの歴史が詰まった土地である。
そして島原は、戦国時代や江戸時代だけではなく、邪馬台国の候補地として注目されたこともある古代史の土地でもある。
ところで、
「島原」という名前は、なぜ島原なのだろう。
島でもないのに「島」と呼ばれ、山の多い土地なのに「原」という字が付いている。
調べてみると、この名前には古代の『肥前国風土記』につながる、なかなか面白い話が残されている。

諫早湾干拓堤防から見た島原
熊本から見ると「島」に見えた?
奈良時代の初めにまとめられた『肥前国風土記』には、景行天皇が九州を巡った時の伝承が記されている。
景行天皇が現在の熊本県側から有明海の向こうを眺めると、海上に大きな山が浮かんでいるように見えたという。
現在の雲仙岳周辺である。
島原半島は諫早方面で九州本土とつながっている。
しかし熊本側から遠く眺めれば、その低い部分は見えにくく、雲仙岳だけが海の上に浮かんでいるように見える。
そこで天皇は、
「あれは島なのか、それとも陸続きなのか」
と尋ねたという。
家来が調べたところ、島のように見えるが実際には陸続きで、その先には広い土地が広がっていた――。
そんな伝承が残されている。
「島」と「原」で島原になったのか
この話から、
海から見ると島のように見え、近づけば広い原が広がっていたため「島原」と呼ばれるようになった
という説が生まれた。
確かに分かりやすい。
熊本側から島原半島を眺めれば、雲仙岳が巨大な島のように見える。
そして半島へ渡れば、その山麓には人々が暮らす土地が広がっている。
つまり、
島のように見える土地+広がる原=島原
というわけである。
ただし、これをそのまま地名誕生の史実と考えるのは少し慎重になった方がよい。
昔の「原」は平らな土地だけではない
現在「原」と聞けば、広く平らな草原や平野を思い浮かべる。
ところが古い地名に使われる「原」は、必ずしも完全な平地だけを意味しない。
山の麓に広がる土地や、開けた土地を「原」と呼ぶ例も各地にある。
九州には、前原、田原、世知原など、「原」を「はる」「ばる」と読む地名も多い。
そのため、
「島原は山ばかりなのに、なぜ原なのか」
という疑問も、それほど不思議なことではない。
雲仙岳の裾野に広がる土地全体を「原」と捉えた可能性も考えられるのである。
『肥前国風土記』の話は地名説話か
ここで注意したい。
『肥前国風土記』に残る景行天皇の話が、そのまま「島原」という地名の誕生を記録したものとは限らない。
古代の『風土記』には、
「なぜこの土地は、この名前なのか」
を説明するための伝承が数多く収められている。
その中には、すでに存在していた地名に合わせて、後から物語が作られたと考えられるものもある。
いわゆる地名説話である。
つまり、
「景行天皇が島のように見える土地を見たから島原になった」
というより、
先に「しまばら」という地名があり、その名前を説明するために「島のように見えた」という物語が語られた可能性も考えておく必要がある。
「しまばら」という音の本当の意味は分からない
これまで取り上げてきた長崎、諫早、佐世保、壱岐、対馬などと同じように、島原も漢字だけから語源を断定するのは危険である。
現在は「島原」と書くので、
島+原
と考えたくなる。
しかし、先に「しまばら」という音があり、後から「島原」という漢字が当てられた可能性もある。
古い地名は、文字よりも人々が口で呼んでいた音の方が先に存在することが多いからである。
したがって、
「島のように見える原だから島原」
という説は非常に分かりやすいが、絶対にこれが正しいとまでは言えない。
島原と『まぼろしの邪馬台国』
島原を古代史の町として全国に知らしめた人物の一人が、郷土史家の宮崎康平である。
宮崎康平は島原鉄道の役員を務め、「島原の子守唄」の作者としても知られる人物で、失明後も妻・和子の協力を得ながら古代史研究を続けた。
そして1967年に刊行した『まぼろしの邪馬台国』で、邪馬台国の所在地を島原半島周辺に求める説を発表した。この本はベストセラーとなり、全国的な邪馬台国ブームのきっかけの一つになった。
宮崎康平は『魏志倭人伝』の行程や古代地名を読み解きながら、邪馬台国は九州、それも有明海沿岸にあったのではないかと考えた。
現在も邪馬台国の所在地は決着しておらず、畿内説と九州説を中心に議論が続いている。そのため宮崎説も確定した学説ではない。
しかし、島原という土地を古代史の大きな舞台として見直した功績は非常に大きい。
島原半島に残る前方後円墳
宮崎康平が島原半島の古代史に注目した理由の一つとして、この地域に古墳が存在することも挙げられる。
代表的なのが、雲仙市国見町にある守山大塚古墳である。
守山大塚古墳は島原半島で唯一、前方後円墳の形が現在まで残る古墳で、4世紀前半に造られたと考えられている。
現在確認されている規模は全長約70メートルで、調査によってさらに80メートル前後の規模だった可能性も指摘されている。島原半島では非常に大きな古墳であり、この地に有力な首長が存在していたことを示している。
しかも、この守山大塚古墳は宮崎康平の『まぼろしの邪馬台国』でも紹介されている。
邪馬台国の時代とされる3世紀からは少し後の古墳ではあるが、島原半島に古代から大きな勢力が存在していたことを考える材料にはなる。
だからといって、
「前方後円墳があるから邪馬台国は島原だった」
とは言えない。
しかし、
島原半島が古代から人口と権力を集める重要な土地だった
ことは、考古学的にも無視できないのである。
島原という名前を有名にした島原城

島原城
現在の「島原」という地名が全国的に知られるようになるのは、中世から近世にかけてである。
江戸時代初期には松倉重政が島原城を築き、その周辺に城下町が形成された。
そして1637年には、天草四郎を中心とする**島原・天草一揆(島原の乱)**が起こる。
雲仙地獄ではキリシタンへの迫害も行われた。
こうして「島原」という名前は、温泉や美しい風景だけではなく、日本史上でも重要な出来事と結びついていったのである。
しかし、その名前そのものは島原城よりはるか以前から存在していた。
城ができたから島原になったのではなく、
島原という土地に城が造られ、島原城と呼ばれた
のである。
古代から信仰の土地でもあった
島原半島には、古くから雲仙岳そのものを神聖な山として見る信仰があった。
その中で知られているのが四面宮である。
雲仙岳を中心に島原半島各地に広がった信仰で、後の温泉神社につながっていく。
島原半島は、火山と温泉の恵みを受ける一方、噴火という恐ろしい力とも隣り合わせで暮らしてきた土地である。
古代の人々が雲仙岳を特別な山として見たのも不思議ではない。
地名、信仰、古墳、邪馬台国、温泉、火山。
島原の歴史は、雲仙岳抜きでは語れないのである。
結局、島原という名前はどこから来たのか
整理すると、
島原という名前については、
熊本側から見ると島のように見え、その先に広い土地があったため「島原」と呼ばれた
という説が分かりやすい。
『肥前国風土記』にも、景行天皇が海の向こうの土地を見て「島なのか、陸なのか」と尋ねたという伝承が残る。
しかし、この物語そのものが地名の起源を記録したものなのか、それとも後から地名を説明するために生まれた説話なのかは分からない。
さらに島原半島には前方後円墳が残り、宮崎康平はこの土地を邪馬台国候補地の一つとして考えた。
地名の由来一つを調べるだけでも、古代の信仰から邪馬台国論争、戦国時代、キリシタン、島原の乱まで話がつながっていく。
それこそが島原という土地の面白さではないだろうか。
子供たちに話すなら
島原は、熊本側から有明海越しに見ると、雲仙岳が海に浮かぶ巨大な島のように見える。
昔の『肥前国風土記』にも、景行天皇が「あれは島なのか、それとも陸続きなのか」と尋ねたという話が残っている。
そのため、
島のように見え、その向こうに広い土地があったので「島原」になった
という説がある。
島原半島には古い前方後円墳もあり、郷土史家・宮崎康平は『まぼろしの邪馬台国』で、邪馬台国を島原半島周辺に求めた。
本当に邪馬台国がここにあったのかは今も分からない。
しかし島原が、温泉と島原城だけの町ではなく、二千年近い古代史の謎を抱えた土地であることは間違いない。
普段何気なく呼んでいる「島原」という三文字の向こうには、雲仙岳を見上げた古代の人々の姿まで見えてくるのである。
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