長崎のわらべ歌「でんでらりゅう」の本当の意味とは?隠された唐人墓地とロシア遊女の謎に迫る【歴史推理】

長崎に古くから伝わる不思議なわらべ歌、「でんでらりゅう(でんでらりゅうば)」。
「でんでらりゅうがでてくるばってん…」という独特のリズムと歌詞は、CMや音楽教材などでも広く知られていますが、「結局、何が出てこようとしているのか?」「デンデラリュウとは何なのか?」という本当の意味や由来については、今も多くの謎に包まれています。
 
にほんごであそぼ でんでらりゅうば

にほんごであそぼ でんでらりゅうば

一般的には「夜這いの歌説」「雨乞い(水神送り)説」「オバケ説」などが語られますが、長崎の歴史や地形、そして路地裏に生きた人々の感情を深く掘り下げていくと、まったく別の意外な真実が浮かび上がってきます。

※本稿は学術論文ではなく、郷土の歴史と伝承を手がかりに紐解く「歴史推理」です。「不思議な童唄の真実。NO,4 悪魔の竜 でんでらりゅうの謎」の執筆後、再検証を行い創作したものです。
岩手・遠野の『蓮台野』、奈良の『でんでらこ』、そして長崎・稲佐の『あちゃばか(唐人墓地)』と『ロシア遊女』——。
点と点が線でつながったときに見えてきた、「デンデラリュウ」の驚くべき正体を解き明かします。

不思議な歌が長崎にある。

でんでらりゅうがでてくるばってん

でんでられんけん でーてこんけん

こんけられんけん こられられんけん

こーんこん
まごうことなき「わらべ歌」である。
僕自身も子供のころに何度か口ずさんだ記憶がある。不思議な歌詞と、調子のいいメロディーが耳の底にこびりつくようで、忘れられない。
最近ではいろんな方がCDに吹き込んだりして、長崎の歌としてすっかり市民権を得たようだ。

新しい歌かと思いきや、そうではないらしい。
改めて調べてみると、起源は明確ではないという。長崎を中心に九州地方で流行し、それぞれの方言でアレンジされながら歌い継がれ、全国へと広まった。小学校の音楽教材に取り上げられていたこともあるそうだ。
これに目をつけたキングレコードが、現代風の詞と音楽をつけて昭和52年にレコードを出している。ちなみに「前田良一氏の作詞作曲・歌」とある。大阪ではちょっと有名だった、占いもやる不思議な“屋台のおっちゃん”が出したレコードの一枚だという(ウィふり調査団調べ)。

歌詞の意味自体は単純で、「何かが出てこようとするのだけど、出てこられなくなった」という意味なのは間違いない。
それにしても、「デンデラリュウ」という言葉が妙に耳に残るのだ。

「デンデラリュウ」を調べる

インターネットで検索してみると、「ウィふり調査団」というサイトに以下のような考察があった。要点を抜粋してみよう。

  1. 「夜這いの歌」説 、「丸山の女郎さんの歌」説
  2. 凧上げのときの歌(水神の神送り)説

    にわかに広がる雨雲、即ち冒頭の「でんでら」は雲がにわかに広がる様子を表現した擬音。水神の司である「龍」の出現の前兆であり、「龍」の出現=「雨」を意味する。この歌は水神の「神送り」の名残りであり、「でんでら」は形容副詞、「りゅう」は「龍」である。
  3. 「オバケ」説

    「でんでら」とはオバケのことで、この歌を歌っているとオバケが出てこないという呪文のようなもの。意味は「でんでら(オバケ)が出てこようとしているが、出てこられないので出てこない」。
どれもそれなりに道理のある解説である。一つずつ吟味してみたい。

1.「夜這いの歌」説 、「丸山の女郎さんの歌」説

これは、ありそうだ。
第122回直木賞を受賞した、なかにし礼氏の小説で有名になった「長崎ぶらぶら節」にも、艶っぽい話は多い。「デンデラリュウ」も遊郭で歌われたのかもしれない。
歌詞にある「デンデラリュウ」が、実は「(遊郭へ)出て行こうと思えば、出て行けるのだけども、何かの都合で出て行けなくなった。来れなくなった。残念だね」という意味合いだったら辻褄が合う。
ただ、どこかこじつけの様な感じがする。それに、丸山の洗練された芸妓たちが歌うにしては、「デンデラリュウ」という響きは子どもっぽすぎる。やはり元歌があって、それを替え歌や違う意味ではやしたてて歌っていた、と考える方が自然だろう。

2. 凧上げのときの歌(水神の神送り)説

まず「凧上げのときに長崎で歌われる歌」というのが引っかかる。僕の知っている範囲で、凧上げ(長崎ではハタ揚げ)のときにでんでらりゅうを歌っていたという話は聞いたことがない。
まあ、当時のお金持ちが丸山の芸者さんたちを引き連れてドンちゃん騒ぎをしながらハタ揚げを楽しんだというから、その席で歌われた可能性はある。
「でんでら」が雲の広がる擬音であり、「龍の出現=雨」というのも納得はいく。
しかし、「神送り(神様を迎えたり送ったりする行事)」の歌とするには不自然だ。なぜなら歌詞では「こなくなった」と言っており、「なぜ来なくなったのか」という理由が抜け落ちてしまうからだ。「でんでら竜」という見立てには賛成なのだが、「神送り」の歌となると疑問が残る。
 

ハタあげ

ハタあげ


3.「オバケ」説

これは、いい線いっているかもしれない。後述するが「でんでら」とは確かに霊的な場所を意味している。ただ「りゅう」に対する説明がないのが残念だ。

いずれも一長一短あり、すっきりと腑に落ちない。そこで、改めて独自の調査を開始した。

「でんでら」の意味

遠野物語

遠野物語


ある時、柳田国男の『遠野物語』を読んでいた。
民俗学の礎となった有名な本である。河童や座敷わらしなど、民間に伝わる伝承を伝聞のまま書き綴ったものだ。なんとはなしに読み進めていると、突然「でんでら野」という言葉が目に飛び込んできた。『遠野物語』からその話を抜粋してみよう。

266. 青笹村の字糠前と字凡内時の境のあたりをデンデラ野またはデンデエラ野と呼んでいる。(中略) すなわち死ぬのが男ならば、デンデラ野を夜中に馬を引いて山歌を歌ったり、または馬の鳴輪の音をさせて通る。(中略) こうして夜更けにデンデラ野を通った人があると、喜平どんの家では、ああ今度は某が死ぬぞなどといっているうちに、間もなくその人が死ぬのだといわれている。

268. 昔は老人が六十になるとデンデラ野に捨てられたものだという。
この「デンデラ野」という場所には、冥界の入口、あるいは霊的な場所というイメージが強くつきまとう。
さらに検索を進めると、次のような記述にぶつかった。
 
 
遠野市の山口地域に広がる丘陵地に位置する「デンデラ野」は、姥捨て伝説の地として知られる場所

遠野市の山口地域に広がる丘陵地に位置する「デンデラ野」は、姥捨て伝説の地として知られる場所

姥捨て山

岩手の高冷地、遠野には『蓮台(でんでら)野』と呼ばれる、口減らしのために老人たちを捨てたという伝説的な丘や野原が集落ごとに点在していました。老人たちはそこに小屋を造り、死ぬまで生きるために共同生活を営んでいました。時には『蓮台野』をおりて来て、老人の豊かな知識と経験を子供たちに与えていたそうです。(猿木土 真通氏のサイトより抜粋)
ここで初めて『蓮台(でんでら)』という漢字に出会った。これは大きな手がかりだ。 さらに、奈良県大和郡山市の山田杵築神社で行われる「でんでらこ」という祭りも見つけた。

山田のでんでらこ。大和郡山市 山田の杵築神社で行われる「でんでらこ」は夜に点される大松明が豪快です。この「でんでらこ」行事の所作は八岐大蛇伝承をあらわしている。
ここでは霊的なものというより、八岐大蛇(やまたのおろち)伝承である。
この祭りの「でんでらこ」の漢字表記があるといいのだが、どの資料にもひらがなで載っているのが惜しまれる。

岩手の『蓮台(でんでら)野』の「蓮台」の意味を調べてみた。

仏さまは、蓮の花をかたどった台に座っています。この台を蓮台(れんだい)といいます。蓮の花は仏教の象徴的な花として大事にされます。そして仏さまの座席として使われます。お不動さまはこの蓮台を頭に載せ、自分はしっかりとした大きな岩に坐っています。蓮台に乗るのは皆さんで、お不動さまは使者として、縁の下の力持ちとなって信じる人を支えることを現します。(やさしい仏教入門より抜粋)
 
蓮台

蓮台

「蓮台」の正式な読みは「レンダイ」。それが訛って「でんでら」になったのだろう。
仏様の場所、それが転じて「墓地」という意味になったと考えられる。

長崎の「デンデラリュウ」と直接つながりがありそうなのは、大和郡山市の「でんでらこ」という祭りだろう。八岐大蛇伝承というのは、つまり「竜伝説」だ。デンデラリュウの「竜」と同じ意味かもしれない。
ただ、仏様の「デンデラ」と、日本の神話の「でんでらこ」では、あまりにもかけ離れているような気もする。「やまたのおろち伝説」は様々な解釈がなされているため、ここでの結論は保留にしておこう。

とりあえず、これら二つの手がかりを結びつけると「災いの竜」「墓場の竜」といったイメージが浮かび上がってくる。
しかし、ここで二つの疑問が湧いてくる。
一つは「距離」だ。長崎、岩手県の遠野、奈良の大和郡山。決して近くはないこの3箇所を、言葉が伝わるルートが現実にあったのだろうか。
もう一つは「背景」だ。長崎に「でんでら」という言葉が使われるような事象があったのだろうか。

長崎・遠野・大和郡山を結ぶ線

遠野という場所は東北の山深い盆地にある。田舎というイメージを持たれがちだが、かつては平泉の藤原氏が繁栄した黄金の産地であった。
遠野は明治になるまで尾根づたいか峠越えの道しかなかったが、古代から東西南北の商業・交通の要衝であったため、商人、漁師、山師、僧、山伏、旅芸人などが交流し、各地の産物、信仰、伝承、民話、民謡などが伝わったとされている。
いわゆる文化の吹き溜まり的な性格を有し、言うなれば日本の民話の見本市のような場所であった。

であるから、長崎の民話の中にも、遠野の話がルーツになっているものがたくさんある。
盛岡市川原町円光寺の「赤子塚」の話は、長崎に伝わっている「飴屋の幽霊」の話とまったく同じである。長崎の中島川にまつわる河童の話など、遠野物語の河童のコピーと言ってもいいほどだ。
人が動けば、文化も動く。我々が想像している以上に、昔は活発に文化交流が行われていたということである。

そして長崎は開港以来、西洋や中国に対して開かれた日本唯一の貿易窓口であった。さまざまな人々が集合離散する規模は、おそらく日本一だっただろう。
ということは、遠野の「でんでら野」という言葉が、長崎の「デンデラ」と結びついている可能性はかなり高いのだ。
ただ、現在の長崎に「でんでら」という方言は残っていないし、「でんでら=墓」という意味も定着していない。

長崎の龍

おくんちじゃ踊り

おくんちじゃ踊り

長崎の龍といえば、おくんちの「龍踊り(じゃおどり)」である。
長崎に住んでいる僕でも、「でんでらりゅう」とおくんちの「龍踊り」は結びつかない。他所の地区の人から見れば不思議かもしれないが、おくんちの「龍踊り」は別格なのだ。
「龍踊り」とは、もとは正月の催し物の一つとして長崎在住の中国人が行なっていたそうです。その後、約300年前に唐人屋敷に隣接した本籠町(現在の籠町)の住民がその技法を習い、種々の器材の寄付を受けたのが現在の龍踊りのルーツになっています。昭和30年までは「蛇踊り」の文字が使われていましたが、その後「龍踊」「龍踊り」と表現される様になりました。不老長寿の源であるとされる月(異説では太陽)を、龍が食べようとして追いかけるもののなかなか捕らえきれない様子を描写しています。籠町と諏訪町の龍踊はそれぞれ、「国選択無形民俗文化財」「県指定無形民俗文化財」です。(筑後町龍踊の解説より抜粋)
諏訪神社のくんちはキリシタン禁止政策の一環として、長崎奉行が諏訪の神事を長崎一般の神事と認定したお祭りだ。
しかし、「デンデラリュウ(墓場の竜)」とおくんちの「龍踊り」はどうしても結びつかない。ヤマタノオロチの神話ともかけ離れている。

違う可能性を探ってみよう。
しかし、長崎のリュウといえば、当時住んでいた長崎在住の唐人に関係があるということは間違いない。リュウは唐人さんのお祭りに必ず出てくるのだ。

唐人屋敷を調べる。
唐人屋敷は現在の館内町にあり、鎖国時代に出島と並び海外に開かれていた窓口だった。しかし「でんでら」が「墓場」という意味なら、ここではないだろう。この地域に大きな墓場はない。
長崎の唐人さんたちの墓場は、海を隔てた対岸の「稲佐(いなさ)」にあった。

稲佐の悟真寺と大事件

稲佐の悟真寺は、キリシタンの町・長崎に慶長3年(1598年)最初に復興した寺院で、現存する長崎の寺院では最古である。また豪族・伊奈佐治郎太夫の居館の跡といわれ、稲佐の地名の発祥地でもある。
後に興福寺、崇福寺、福済寺の「唐三ヵ寺」が建つまでは、悟真寺が長崎在留唐人の菩提寺であったため、中国墓地が3分の2を占めている。

館内町の唐人屋敷から見ると、稲佐の悟真寺は海を隔てて真正面に見える。稲佐という地域は外国人特別地区のような歴史もあり、唐人だけでなく、朝鮮、ロシア、イギリスなどの人々も多く住んでいた。外国人専用と思われる遊郭もあった。

実は、稲佐は僕の実家のある地域であり、土地勘もある。
悟真寺には蓮池というのがあった。僕も昔、悟真寺のあちゃばか(阿茶さん=中国人の愛称)の蓮池の竜の話を誰かに聞かされた覚えがあるのだ。

さらに「唐人墓地祭場所石壇」の解説では、1659年(万治2年)に長崎在住の唐人らによって造られ、死者の霊を慰めるために春秋の祭祀法要が営まれていたとある。
この新しく作られた「唐人墓地祭場所石壇」は、なぜ作られたのだろうか。
 
唐人墓地祭場所石壇

唐人墓地祭場所石壇

長崎の竜といえばもう一つあった。それは「ペーロン」だ。
長崎のペーロンは、海神をまつる中国伝来のボートレースである。

ペーロンは「白龍」の中国音のパイロンがなまったものといわれております。長崎で初めてペーロンが行われたのは1655年(明暦元年)頃で、当時、暴風雨のため唐船が難破し、多くの犠牲者を出したことから、長崎在住の唐人達が海神の怒りを鎮めるためと、自国の遊技を長崎人に誇示するために、端舟(はしけ)で競漕したことがはじまりといわれています。(長崎のペーロン解説より抜粋)
「唐人墓地祭場所石壇」は1659年(万治2年)に作られている。海難事故のわずか4年後だ。
ペーロンの起源となった事柄が、いかに大事件だったかが明白である。
 
長崎ペーロン選手権大会

長崎ペーロン選手権大会

デンデラリュウの正体

唐人たちが出したペーロン船(竜船)こそが、「デンデラリュウ」である。
おかペーロン

おかペーロン

ペーロンは、その後長崎にしっかりと根付いた。しかし、競漕に熱中する余り各種の喧嘩沙汰を引き起こしたため、長崎奉行はたびたび禁止令を出した。
これは子供たちにも伝わっている。「陸(おか)ペーロン」の話が残っているのだ。

海のペーロンを真似て、陸上で各町の子ども達が組をつくり、他町の者たちと走り競争をした。負けた組は、町内で用意した紙ハタを奪られてしまう。すなわちハタ取りを競うのである。長崎民謡「ぶらぶら節」に“大井手町の橋の上で子供のハタ喧嘩、…”と唄われているのは、この陸ペーロンの時のハタ喧嘩の光景であるといわれています。(抜粋)
ここで初めて「デンデラリュウ」と「わらべ歌」がつながった。
「デンデラ」が「墓場」という意味なのは間違いないだろう。ただ、「デンデラ」は長崎生粋の方言ではない。ということは、違う地域の人たちが使った言葉のはずだ。
長崎自体、当時は人種のルツボ状態だったことは間違いない。カステラ、シャボン、ビードロなど、外来語も長崎市内で当たり前に使われていた。

稲佐地区には、今でも平戸小屋という地域がある。平戸藩の侍たちが警護のために住んでいたのだ。この稲佐地区は、純粋な長崎人だけではなく、国内外の様々な人々が集まって形づくられた地域であることははっきりしている。
「デンデラ」という言葉が他地域のものであったとしても、「墓場」を意味する言葉としてこの地に持ち込まれ、使われていたとしても不思議ではない。

唐人墓地の祭場所石壇を囲んで飲み食いした賑やかな宴の場に、神事の道具であるペーロン船(竜船)が置かれていたとしても全く不思議ではない。
当時の長崎人が使っていたのは鯨船やインコロ船などの実用船であり、「竜」をモチーフにしたスマートな専用船を持っていたのは唐人たちだけであった。

「唐人さんの墓(デンデラ)に置いてある竜船」——これが「でんでらりゅう」だったのだ。
 
中国の伝統的な龍舟(ドラゴンボート)の龍頭

中国の伝統的な龍舟(ドラゴンボート)の龍頭

ペーロンとは真剣勝負の競争である。唐人さんたちの船はきっと圧倒的に速かったのだろう。
喧嘩沙汰の絶えないペーロンゆえに、各グループの小競り合いも日常茶飯事だったはずだ。

では、なぜこの船が歌のネタにされ、あんなにもリズミカルで、極端に韻(ライム)を踏んだ戯れ歌へと仕立て上げられたのだろうか?
その背景には、当時の長崎庶民が抱いていた「華僑への複雑な感情」と、「稲佐遊郭の少女たち」の存在があった。

「あちゃばか」へのやっかみと、稲佐遊郭の少女たち

稲佐遊郭の後

稲佐遊郭の後

当時、長崎の華僑(唐人たち)は貿易を一手に握り、莫大な富を誇っていた。豪壮な唐寺を建立し、ペーロン船を仕立てて誇らしげに競漕を行う彼らの姿は、一般の庶民にとって羨望の的であると同時に、強い「やっかみ(嫉妬)」の対象でもあった。

その感情を如実に物語るのが、稲佐の国際墓地の別名である。
庶民は親愛とからかいを込めて、そこを「あちゃばか(阿茶さんの墓)」と呼んでいた。「あちゃさん」とは中国人の愛称だが、神聖な墓地を「あちゃばか」と平気で呼ぶあたりに、少し斜に構えた庶民の視線が透けて見える。
「でんでら(蓮台=墓)」という言葉に「竜」をくっつけ、神聖なペーロン船を「でんでらりゅう(墓場の竜)」と呼び捨てにする心理的土壌は、まさにこの「あちゃばか」を取り巻く空気の中にあったのだ。

羽振りのいい金持ちの唐人たちが、大金をかけて準備した自慢の竜船が、奉行所の禁止令によってレースに出られなくなった——。
これほど庶民にとって痛快で、格好のゴシップネタ(ざまあみろの笑い話)があっただろうか。

そして、このゴシップを最高の「戯れ歌」へと昇華させた場所こそ、国際墓地のすぐわきにあった「稲佐遊郭」だった。

渡辺淳一氏の小説『長崎ロシア遊女館』にも描かれたように、幕末から明治にかけて、稲佐はウラジオストクから越冬のためにやってくるロシア太平洋艦隊の水兵たちで溢れかえり、ロシア人向けの遊女屋がひしめき合っていた。
 
渡辺淳一氏の小説『長崎ロシア遊女館』

渡辺淳一氏の小説『長崎ロシア遊女館』

この稲佐遊郭には、ふたつの大きな特徴があった。

  1. 客は日本語が一切通じないロシア人水兵であったこと
  2. 遊女たちは丸山の芸妓のような教養がなく、近郊の貧しい農漁村からかき集められた文字も読めない少女たちだったこと
丸山の芸妓であれば、幼少期から三味線や長唄を叩き込まれ、雅な「長崎ぶらぶら節」を上品に歌い上げる。
しかし、異国の荒くれ水兵を相手にした稲佐の遊女たちは、口減らし同然で売られてきた十代半ばの少女たちである。彼女たちに高度な文学的教養などあろうはずもない。

日本語が通じない大柄なロシア水兵と、教養のない少女たち。
座敷で言葉による艶っぽい駆け引きなど成立するはずがなかった。
そんな席を盛り上げ、酒を飲ませるために必要だったのは、「意味」ではなく「極端なリズム(音の反復)」、そして「共通して笑える他愛のないゴシップ」だったのである。
稲佐遊郭の少女とロシア兵 AIのイメージ画像

稲佐遊郭の少女とロシア兵 AIのイメージ画像

執拗な「押韻」と、ロシア語「コン(кон)」の符丁

改めて、歌詞の「音」に注目してみてほしい。

でんでらりゅうがでてくるばってん

でんでられんけん でーてこんけん

こんけられんけん こられられんけん

こーんこん
方言の「〜ばってん」「〜けん」を連射し、den / ren / ken / kon という破裂音と鼻音を心地よくバウンドさせている。
目と鼻の先にある「あちゃばか(でんでら)」に置いてある竜船が出られなくなったというゴシップを、言葉の通じないロシア水兵でも手拍子を打って一緒に合唱できるよう、座敷のコール(囃し唄)に仕立て上げたのだ。

さらに圧巻なのは、歌の結びである「こーんこん」だ。

日本語としては単なる「来ない、来ない」の強調とも取れるが、実はロシア語には「кон(コン)」という極めて日常的な単語が存在する。 ロシア語の「кон」には、賭け事における「賭け金」「順番」、さらには「終わり」「決着」「ゲームオーバー」という意味がある。

酒席でトランプや賭け事に興じ、ウォッカを煽るロシア水兵たち。
少女たちは、出られなくなった唐人の竜船の話をリズミカルに歌い上げ、最後に彼らの言葉である「кон(終わりだ!もうおしまい!)」を響かせて、
「ハイ、これでおしまい! もう来られっこない!」
と、盃を打ち鳴らし、大笑いして座敷を締めくくったのではないだろうか。

日本語の「来ん来ん(来ない)」と、ロシア語の「кон(終わり・決着)」。
言葉の通じない異国の男たちを笑わせるために、少女たちが編み出した、切なくも天才的な「ダブルミーニングの言葉遊び」がそこにあったのだ。

結論

でんでらりゅうがでてくるばってん

でんでられんけん でーてこんけん

こんけられんけん こられられんけん

こーんこん
(現代語訳)

あちゃばか(でんでら)に置いてある唐人さんのペーロン船(竜船)がある。

レースに出てくるはずだったけれど、

奉行所の禁止令のせいで、出られなくなっちゃった。

来れないよ、絶対に来られっこない!

はい、これでおしまい!(кон / ゲームオーバー!)
 
AIのイメージ画像

AIのイメージ画像

裕福な華僑へのやっかみと、「あちゃばか」に置かれたペーロン船の出走中止騒動。
それを、隣接する稲佐遊郭の少女たちが、言葉の通じないロシア人水兵を相手に、手拍子と韻を踏んでお座敷遊びの歌に仕立て上げた。

やがてロシア艦隊は去り、稲佐遊郭も歴史の闇へと消え去った。
しかし、過酷な境遇の中で少女たちが生み出した抜群のリズムとキャッチーなフレーズだけは、街の子供たちや子守娘たちの耳に残り、やがて無邪気な「わらべ歌」という衣をまとって、現代まで歌い継がれることになったのだ。

これが、僕のたどり着いた歴史推理の結末である。
 

▽資料・引用

『長崎辞典 歴史編』 長崎文献社

『長崎辞典 風俗文化編』 長崎文献社

『長崎ロシア遊女館』 渡辺淳一 集英社

『遠野物語』 柳田国男 角川文庫

『遠野物語考』 高橋喜平 創樹社

『遠野の昔話』 佐々木喜善 宝文館出版

ウィふり調査団
 
GeminiAI

 

※本記事は2026年9月に内容を加筆・修正を行いました。

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