対馬南部 乙和多都美(おとわたつみ)神社

対馬南部の地図

乙和多都美神社の前の港 厳原町久和(くわ)浦
対馬南部、厳原町久和(くわ)に鎮座する「乙和多都美(おとわたつみ)神社」。
この神社を訪ねたのは、「乙和多都美」という名前が気になったからである。対馬で和多都美といえば、海中鳥居で広く知られる豊玉町の和多都美神社を思い浮かべる。私も最初は、こちらの神社も何らかの関係があるのだろうと思っていた。
神社は久和の小さな漁港を望む斜面にある。鳥居をくぐるとすぐ後ろは急な傾斜地になっており、拝殿の背後からさらに階段を上ったところに本殿がある。境内は広くなく、海辺の集落に静かに鎮座する素朴な神社という印象であった。

乙和多都美神

乙和多都美神社 拝殿

乙和多都美神社 神殿の階段

乙和多都美神社

乙和多都美神社 神殿

乙和多都美神社 神殿

乙和多都美神社 神殿
現在、乙和多都美神社の祭神として紹介されているのは、玉依姫命(たまよりひめのみこと)と豊玉姫命(とよたまひめのみこと)である。しかし、古代からこの二柱が祀られていたことを直接示す史料は確認できない。古代史料では神名は「和多都美神」とされ、江戸時代の『対馬神社誌』にも「和田津美大明神」と記されるだけで、玉依姫命や豊玉姫命の名は見えない。現在の祭神名がいつ、どのような経緯で定められたのかは不明である。
『対馬神社誌』には、この神社について次のように記されている。
和田津美大明神。神躰石。勸請不知。
本社壹間角、申方ニ向。村より辰方二町程之所也。
拝殿九尺ニ壹間。神山麥五斗蒔程、椎雑木有之。
六月初午日、十一月初午日村中より祭之。爲祭料麥貳斗貳舛出之、巫府内とら。
記述は簡潔で、「神躰石。勸請不知」とある。御神体は石であり、いつ勧請されたのかは分からない、という意味である。少なくとも江戸時代の時点では、この神社の詳しい由来は明らかでなかったようだ。また、記録からは名神大社としての特別な由緒や官社としての伝統は読み取りにくく、六月と十一月の初午に村人たちが祭っていたという、地域の氏神としての姿が伝わってくる。
乙和多都美神社は、『延喜式神名帳』に記された下県郡の「和多都美神社」の論社の一つとされている。ただし、論社とは式内社そのものと確定した神社ではなく、あくまで候補の一つである。古代の和多都美神社と現在の乙和多都美神社を直接結び付ける決定的な史料は、今のところ確認されていない。
一方で、久和の地に「和田津美大明神」と呼ばれる神社が存在し、村人たちによって祭られていたことは『対馬神社誌』から確認できる。この点は、現在の乙和多都美神社を考えるうえで重要である。
そして私が最も気になったのが、現在の社名に付く「乙」である。なぜ単なる「和多都美神社」ではなく、「乙和多都美神社」なのか。
対馬には豊玉町に有名な和多都美神社があるため、現地を訪ねたとき私はつい、「有名な和多都美神社の名にあやかって、こちらは『乙』を付けたのではないか」と考えてしまった。
もちろん、これは史料に基づく見解ではなく、現地を見たときの私の素直な感想にすぎない。
ただし、『対馬神社誌』では「乙和多都美神社」とは記されず、単に「和田津美大明神」とされている。つまり、「乙」という文字がいつから付くようになったのか、その経緯は不明である。
乙和多都美神社について確実に言えるのは、久和の地に「和田津美大明神」と呼ばれる神社があり、御神体を石とし、村人たちによって祭られてきたということである。
現在の祭神名がいつ成立したのか、「乙」がなぜ付いたのか、そして古代の和多都美神社とどこまでつながるのか。そこには、まだ分からないことが多く残されている。

乙和多都美神社

