対馬厳原 十王社

十王社

十王社

対馬の旧城下町、厳原(いづはら)を流れる水路沿いを歩くと、小さな橋のたもとに木造のお堂が佇んでいる。

欄干に「十王橋」と記された橋の脇に建つ「十王社」である。格子の隙間から中を覗くと、中国の官僚を思わせる道服をまとい、頭に「王」の文字が刻まれた冠をかぶった像が安置されている。おそらく冥界の裁判官の代表格である閻魔大王の像だ。

祠である。隣にはゴミ捨て場になっている。ちょっとかわいそうな気がする。

祠の中をのぞくと漫画チックな閻魔大王。なんとなく場違いな感じがするが、この祠がここに置かれている理由があった。

十王社

十王社

「地蔵町」から「十王町」への改称

江戸時代の記録によれば、この一帯はもともと「地蔵町」と呼ばれていた。路傍で庶民を守る地蔵菩薩が祀られていたことがその名の由来である。

仏教の本地垂迹説では、地蔵菩薩と閻魔大王は表裏一体の存在とされた。地獄の苦しみから人々を救う慈悲の仏(地蔵)は、冥界においては厳しく罪を裁く裁判官(閻魔)の姿をとるという考え方である。

やがて同じ場所に閻魔をはじめとする十王が祀られたことで、町の名前も「十王町」へと改められた。延宝4年(1676年)の宗家文庫の屋敷帳にはすでに「十王小路」の名が記録されており、江戸時代前期にはこの信仰が定着していたことが確認できる。

十王社

十王社

境界・結界としての橋詰

長崎市内では橋や水辺にエビス像を多く見かけるが、城下町の厳原では異なる空間観が働いていた。

中世・近世において、川や橋、辻、村のはずれは「現世と他界の境目」とみなされた。村境に六地蔵が置かれたように、川は三途の川に見立てられ、この橋の先にもかつて墓地があった可能性が考えられる。生者の町と死者の世界の境目、そして外からの厄災を遮る「結界」として、橋詰に十王が祀られたのである。

石柱に刻まれた「明治三十八年」

祠のすぐ脇には「十王橋」と刻まれた石碑と並んで、「明治三十八年」と刻まれた石柱が残る。

明治38年(1905年)、日露戦争の日本海海戦があった年に、この橋が近代的な橋へと架け替えられた当時の遺構である。

大町通りから一本東に入ったこの細い通りは、今も「十王小路(じょうしょうじ)」という通称で呼ばれている。文字面から「じゅうおうこうじ」と読みたくなるが、古くからの連声や音便によって「じゅうおう(十王)」が縮まって「じょう」となり、「こうじ(小路)」が鼻濁音化して「しょうじ」へと変化した。民衆が日常の会話のなかで呼びならわすうちに音が滑らかに転訛し、定着した呼び名である。

この祠を神社というのは間違いなのだが、この地の民間信仰だと思い神社の仲間に入れた。

十王は道教や仏教の流れにある。神道も仏教もこちゃまぜの日本だ。これはこれで日本らしいと思った。

十王社

十王社

十王社閻魔大王

十王社閻魔大王

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