長崎、矢上という名の由来の真相

5年ほど矢上の会社で仕事をしていたので、矢上は詳しくなった。

ムービーで矢上神社を撮影もしている。

EOSMOVIE 矢上神社

https://www.youtube.com/watch?v=Z7qwim_1VL0

矢上の由来を調べた事があったが、なんだかよく理解できなくてそのままにしていた。

また、突然気になった。


  矢上神社のよく分からない由緒がこれだ。

矢上神社のご由緒書きより

<祭神>素戔嗚尊・大己貴命・少彦名命

<御鎮座の由緒> 弘安4年(1282年)辛己年9月、当村平野区字平原と言う所へ夜毎に奇異の光あり。

村人不思議のものと見せしに一つの宝剣あり。

これ即ち天津国の剣ならんと或は喜び或は惺れ、四方の村民集合推測するに、過日外賊追風の際、定めて国津神等、この剣を箭(矢)として外敵を刺し賜いしものならんとと衆評一定し、直に一つ石祠を建設し、右の宝剣を御神体となし、箭の神と称して尊崇す。

依て村民の住居する地を箭神村(矢上村)と命名ありと言う。

  最初の謎 「夜毎に奇異の光あり」  

一日ならわかるけど、「夜毎に奇異の光あり」 これは何だろうか。  

1282年の出来事を調べてみる。

北山本門寺_生御影

1282年(弘安5年) 10月13日に日蓮大聖人は御入滅された、とある。

日蓮は蒙古軍の襲来を予知していたという。

関係があるといえばあるが、偶然だろう。

流星や隕石かとも思ったが、特別な記録はない。  

「夜毎に奇異の光あり」に似た言い回しは覚えがある。

 

空海人唐の折、稲佐山に上って怪異あり寺を創して海蔵庵と号す」という言い回しが肥前古跡記にあった。

弘安4年(1282年)辛己年9月と、日蓮聖人は入滅の月と併せているのは、特別な日という事を強調したかった作り話と考えてもいいだろう。  

もう一つ、矢上の近くに戸石という町がある。

その町の神社にこんな言い伝えがある。

かつて海中にあったという戸石神社の鳥居が海に向かって建っている。戸石神社にある御神木が光り、遭難しかけた船の目印になったといういい伝えも残っている。

戸石神社の鳥居

長崎Webマガジン(より引用させて頂きました) http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken0902/

 


長崎名勝図絵 

長崎名勝図絵 さらに、長崎半島の野母崎にも「山上の木立ちの中に、火山権現の祠がある。

夜になると、山の頂に燈火が現れその光は尋常のものではない。人皆これを霊異とした」

http://artworks-inter.net/ebook/?p=271

すべて、橘湾(千々石湾)である。

これは偶然ではないだろう。

すべて海に関係がある。

 

戸石神社と長崎半島の野母崎は、船への明かりだと思える。

矢上の言い伝えも船の明かりかも知れない。  

ただ、矢上の場合は平野区字平原という平地である。

寄る進入してきた賊たちのたいまつかも知れない。

確定できないので、とりあえず、「夜毎に奇異の光あり」は後に回す。  

 


 

つぎは「村人不思議のものと見せしに一つの宝剣あり」だ。

うーん。

つまり、「宝剣」が「夜毎に奇異の光あり」の理由だといいたいらしい。

「宝剣」が光っていたということか。  

 

これ即ち天津国の剣ならんと或は喜び或は惺れ、四方の村民集合推測するに、過日外賊追風の際、定めて国津神等、この剣を箭(矢)として外敵を刺し賜いしものならんとと衆評一定し、直に一つ石祠を建設し、右の宝剣を御神体となし、箭の神と称して尊崇す。

「宝剣」は「天津国の剣」と推測したという。

「天津国の剣」っていうのは一つしかない。

あの天叢雲剣、簡単に言うと草薙剣(くさなぎのつるぎ)である。

草薙剣

 

草薙剣   この剣を箭(矢)として外敵を刺し賜いしものならんとと衆評一定し、直に一つ石祠を建設し、右の宝剣を御神体となし、箭の神と称して尊崇す。  

 

このあたりが分かりにくい。  

草薙剣は剣だから、剣として使えば良いのに、この剣を弓矢の矢として使う事をみんなで決めたという事になる。  

過日外賊追風の際」とは3度目のモンゴル軍襲来のことだろう。

モンゴル軍襲来

1274年(文永)の役。モンゴル軍が博多に上陸。日本軍は惨敗。しかし、暴風雨が起こり、船が粗悪だったこともありモンゴル軍は壊滅して撤退。 1281年(弘安)の役。またもモンゴル軍やってくる。が、やっぱり暴風雨と、さすがに今度は準備万端の日本軍の前に敗れ去る。 大日本史年表(鎌倉時代)より

「直に一つ石祠を建設し、右の宝剣を御神体となし、箭の神と称して尊崇す。」

もし3度目のモンゴル軍襲来があっと時の為の決意表明という所だろう。  

 

大体わかったが、矢上と「天津国の剣」がどうも結びつかない。

同じ武器だとしても剣と矢では違うからだ。  

どうしても、矢にする必要があるようだ。  

もう少し進む。   矢上神社のご神体は「右神祠へ素戔嗚尊、大己貴命、少彦名命」とある。

天津国の剣、草薙剣(くさなぎのつるぎ)」は素戔嗚尊だ。

 

「天津国の剣」と「素戔嗚尊(スサノウ)」は当然といえる。

スサノウ

大己貴命は大国主(おおくにぬし)の事である。

大国主は色んな話しがあるが、ここは「国譲りの神」という事から、神に対して従順であるということの表明と考える。

少彦名命(スクナビコナ)は大国主の国造りに際し、天乃羅摩船(アメノカガミノフネ)に乗って波の彼方より来訪した神様である。

大国主と少彦名命はコンビで国を作っているということになる。  

うーん。 やはりしっくりこない。

違う見方をしてみたい。


  「ナガジン」発見!長崎の歩き方というホームページに矢上町の由来が載っていた。

■矢上(やがみ)町/誰もが、“矢”がキーポイントになると予測するに違いない矢上町の由来には、なんと4つの伝説がある。

1.薪を取り、狩りをして暮らす人々が山神祭りを行なう際、山神に矢を捧げたという山神説。

2.昔、戦が行なわれた時代、武運長久を祈るための儀式として矢を神に捧げていたという軍神説。

3.昔、鎮西八郎為朝が、八郎橋の上から八幡神社にある大楠を的に矢を射たという為朝説。

4.弘安4年(1281)に、当村平野区字平原という場所で発見された宝剣にまつわる宝剣説。

矢と剣にまつわる4つの伝説。さぁ、あなたの見解はどっち? http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken0606/index2.html

  1番と2番は検証しようがない。 3番だが、この話は聞いたことがある。

 

弓の名手で、鎮西を名目に九州で暴れ、鎮西八郎を称す。ウィキペディア

しかし、八郎橋、八幡神社、八郎川。

八繋がりの語呂合わせのようだ。  

 

鎮西八郎は有名人である。そして弓矢の名手である。

 

鎮西八郎

八幡神は武運の神(武神)「弓矢八幡」として崇敬を集め早くから神仏習合がなり、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)と称され、神社内に神宮寺が作られた。

 

八郎橋から八幡神社の大楠へ矢を打つというのは、あまりにも分かり易い。

 

源 為朝(みなもと の ためとも、旧字体:爲朝)は、平安時代末期の武将。源為義の八男。母は摂津国江口(現・大阪市東淀川区江口)の遊女。 しかし大暴れがたたって伊豆大島へ流される。そこでも暴れて国司に従わず、伊豆諸島を事実上支配したので、追討を受け自害した、とある。ウィキペディア

 

佐賀県の黒髪山に為朝が角が7本ある大蛇を退治したという伝説が残っている。

さらに為朝は死んではおらず、琉球へ逃れ、その子が初代琉球王舜天になったとしている。

この話がのちに曲亭馬琴の『椿説弓張月』を産んだ。

椿説弓張月

実際この伝承に基づき、大正11年(1922年)には為朝上陸の碑が建てられた。

おなじ九州なので、矢上にもその話しがあっても不思議ではないという理屈である。  

矢上は佐賀鍋島藩の家老諌早氏の知行地であった。  

佐賀県の黒髪山に為朝が角が7本ある大蛇を退治したという話しだが、

白川の池のほとりに万寿姫が美しく着飾って座ると、まもなく水面に大波が立ち大蛇が現れた。

姫に襲いかかる大蛇に為朝が八人張りの強弓から放った大鏑矢(かぶらや)が右目を射抜き、高宗が三人張りの弓で放った矢が眉間を貫いた (略) 大蛇に当たった矢が跳ね返って刺さったという矢杖(西有田町) 黒髪山登山口の案内より http://www.kurokami-saga.jp/katsudou_annai/daijya_taiji.htm

 

この伝説が佐賀の色んな地名の由来になっている。 矢上も同じような由来としたのかも知れない。

二つの説は、伝説だといえばそれまでだが、納得できる決定打がない。  


更に調べてみると、重要な発見があった。  

 

「矢上氏」

南北朝~戦国時代にかけて、高城台に城館を構えていた「矢上氏」の名が見えるが、諫早の戦国大名西郷氏の滅亡と同時期に姿を消しており、詳細はつかめない。という一文があった。 http://d.hatena.ne.jp/mai9mami/20121101

 

西郷氏は島原半島の瑞穂町にある「西郷」という場所が発祥地といわれ、南北朝時代に杉峰城を拠点としていました。

その後宇木城に移り、戦国時代に西郷尚善が伊佐早氏を滅ぼし諫早地方を統一すると、諫早城を築いて本拠を移します。 尚善の孫の西郷純尭のときには有馬氏から独立した戦国大名となり、諫早城を中心に、尾和谷城(大渡野氏)、真崎城、小野城、宇木城(西郷一門)、久山城(喜々津氏)、飯盛囲城(東氏)、矢上城(矢上氏)の支城を配して家臣に守らせました。 http://d.hatena.ne.jp/mai9mami/20121101

 

矢上は、昔 伊佐早氏の所領だった。

伊佐早の名前は、温泉神社に四面大明神の一つとして載っているほど由緒ある名前である。

矢上は伊佐早神の縄張りだったはずだ。

そこへ高来の西郷氏が侵攻して、西郷氏の所領になる。

その西郷氏の部下に矢上氏がいたということになる。

 

http://www.hb.pei.jp/shiro/hizen/yagami-jyoyama-jiro/

肥前・矢上城山城 詳細不明。

この辺りには南北朝時代に矢上氏がおり、戦国時代には西郷氏に属して矢上伯耆守などが知られる。

矢上氏はこの城山城の南西の矢上城を詰城、北方の矢上館を居館としたと考えられている。(長崎市立高城台小学校の付近)

「矢上」氏という名前は細川政元の重臣 三好家家臣団の矢上伯耆守という人物がいた。

長崎の矢上氏と関係があるかは不明だが、阿波矢上城主(徳島県板野郡藍住町矢上)もあり、流れをくんでいるのかも知れない。  

これが真相っぽい!!  

だが・・・   矢上の地には、鎌倉後期の1288年に伊佐早の統一に成功した伊佐早氏がおり、その伊佐早氏を室町後期に西郷氏が追い出した。

つまり室町後期に矢上の地には、れっきとした「矢上」氏がいたのである。

そして矢上神社の上の方に山城まであったという。  

しかし、大村にも矢上がある。

 

大村市重井田町 石走川の辺りは、海であったと思われ、満ち潮の時にはこの付近まで海水が来るという状態で、整備されるまでは土地が低くて湿地が多くありました。また、福重町は以前は矢上郷といっていました。矢とは「入江・湿地」の意味があり、その上手にある集落ということで、矢上と名付けられたと思われます。 福重の名所旧跡や地形 http://www.fukushige.info/spot/ishibashiri-dososhin01.html

矢がなぜ「入江・湿地」の意味になるのかは不明だが、こういう説明もある。    

「矢上」氏がいたから矢上なのか、地形上「矢上」と読んでいたのかなのだが、これは長崎とそっくりである。

長い岬だから長崎か、長崎氏がいたから長崎なのかという問題と同じである。  

しかし、まてよ。

矢上町の由来になぜ「矢上」氏のことが出ていないのだろうか。

「入江・湿地」の事も挙げられていない。

なぜだろうか。  

やや混乱状態だ。

こういう時は最初に戻るのがいい。

 

そして、今までの話しを、わかる範囲で時間軸に並べてみた。  

矢上神社の由緒では弘安4年(1282年)とある。

時代的にいうと、矢上氏が現れるのは、矢上神社の建立より後の話である。  

矢上神社 弘安4年(1282年

矢上氏の登場 南北朝時代 (1336年 – 1392年)  

 

明らかに矢上神社のほうが古い。  

その結果、今まで調べてきた由来で、一番可能性があるのは鎮西八郎の話しと思う。

この話しをもう一度反芻してみる。  

 

鎮西八郎為朝が、八郎橋の上から八幡神社にある大楠を的に矢を射たという為朝説 八幡神社は矢上神社ではない。

ここは重要だと思う。  

矢上の由来は八幡神社の大楠の矢からきている。

為朝は平安時代の武将だ。(平安 794年 – 1185年)    

矢上神社は神仏習合された神社である。

境内社には八幡大神、諏訪明神、白龍神、五穀大明神が祭られ、神社の隣には、諫江八十八ヶ所霊場の第七十一番札所として弘法大師が祭られており、地蔵菩薩、馬頭観音も並んでいるのだ。

諫江八十八ヶ所

諫江八十八ヶ所 矢上神社の横   矢上八幡神社は御祭神応神天皇、寛文7(1667)年に創建されている。

かなり新しい。  

矢上神社より400年も後である。

という事は「八郎橋から八幡神社の大楠へ矢をうつ」という話しのつじつまが合わない。  

現在の矢上八幡神社ではなく、それ以前に八幡神社がここにあったのだろう。

(八幡宮(はちまんぐう)は、八幡神を祭神とする神社。全国に約44,000社あり

ウィキペディア

なにせ、全国至る所に建てられている神社である。言い換えればどこにでもあった)  

 

しかし、矢上神社が古いのに、鎮西八郎為朝の伝説がない。

なぜだろうか?  

一つの考えが浮かんだ・・。

矢上神社だが神と仏が同居する神仏習合の神社である。

だから、昔はお寺だったのかも知れない。

 

神仏習合の形は色んなパターンがあるが、最初から神社だったら神宮寺という形で仏を祭るのだが、お寺だった場合神社になる事がある。

もしかすると矢上神社は神仏習合のあり方にのっとり、1282年に新しく誕生した神社だったのかと推理する。

お寺だったら、鎮西八郎為朝の伝説は生れにくい。

為朝は八幡様だからだ。  

その時代には矢上は矢上といっていなかったかも知れない。

川の名前は矢上川ではなく八郎川だからだ。

つまり八郎地域だと思われる。

 

矢上地図

 

回りには、戸石や古賀という地域名がある。  

現在のやがみのような、埋め立てられた平地もなく、大きくえぐり込まれた地域には、地名が必要なかったのかも知れない。  

 

矢上神社が出来た時、矢上と名がつけられたのは、八幡神社の大楠へ矢の上手の方だったからに違いない。

上中下が地名に着く場合、単純に方角や重要度の度合いでつくことが多いからだ。  

 

ここで整理したい。

まず時代から順に並べる。  

矢上地域には、たぶん伊佐早氏が領地としていた時代があった。  

しかし、現在のような平地の部分は少なかったので、矢上という地名はなかったと思う。  

その後、鎮西八郎が八郎橋から八幡神社の大楠へ矢をうつ伝説が生れる。

(これは江戸時代の話しかも知れないが、鎮西八郎が活躍していたのは1100年代だからだ)  

 

矢上神社が出来る(1282年)。

この時初めて矢上という名前が誕生したのではないだろうか。

前半の宝剣の話しは、適当だと思う。

宝剣の話しは、素戔嗚がご神体だからである。  

やはり、 鎮西八郎が矢をうった事が大切であった。

なぜなら川は八郎川だからだ。  

 

この剣を箭(矢)として外敵を刺し賜いしものならんとと衆評一定し、直に一つ石祠を建設し、右の宝剣を御神体となし、箭の神と称して尊崇す。  

「箭の神」もしくは「箭の上」   これが矢上の名前の由来である。  

矢上の名前は矢上神社が自らつけた。

矢の神として、その地域の伝説をそのまま受け止め、 八幡神社より、格が上だということを知らしめる。

それにより人は集まり、神と仏は命を民より集めることが出来る。  

 

間違いないだろう。  

どんな地名にも由来はある。

 

そして、その理由は様々だ。

単純なものや複雑なものもあるだろう。

しかし、それを知ることは大切なことだと思う。

なぜなら、時代を知ることにつながるのだから。    

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