銅鐸考 長江文明の兵士の代わり

大岩山銅鐸と滋賀県出土銅鐸・小銅鐸

大岩山銅鐸と滋賀県出土銅鐸・小銅鐸

銅鐸(どうたく)は、弥生時代に製造された釣鐘型の青銅器である。紀元前2世紀から2世紀の約400年間にわたって製作、使用された。

「鐸」という意味は、古代中国において用いられた柄付きの青銅器の楽器の事をいうが、日本の銅鐸が楽器であるとはいえないらしい。

何が謎とされているかというと、『古事記』『日本書紀』などの古文献には、全く登場しない謎の青銅器という点である。

銅鐸(どうたく)は3世紀頃、邪馬台国の卑弥呼の時代に突然姿を消した。


この銅鐸を持ち込んだ人達がいるということである。

銅鐸は中国大陸を起源とする鈴が朝鮮半島から伝わり独自に発展したというのが定説だったが、中国江蘇省無錫市にある春秋戦国時代(紀元前770 – 同221年)の地方国家、越の貴族墓から、日本の弥生時代の銅鐸に形が似た青磁器の鐸が出土している。

発掘調査を担当した南京博物院考古研究所の張所長は、鐸が中国南部の越から日本に直接伝わった可能性があると指摘している。

銅鐸文化圏

昔学校で、銅鐸文化圏と銅矛文化圏というのを習った覚えがある。

銅矛は主に北九州周辺、銅鐸は近畿から東海地方にかけての地域で出土するという偏りがあったため、それらの文化をもつ一族が存在していたと、真剣に論じられていたという。

現在でも出土する傾向はあるが、銅矛文化圏の九州佐賀県の吉野ヶ里遺跡での出土等も多くなり、その説はいつの間にか影を潜めているという。

銅矛

銅矛


古代史を論ずる時の重大な落とし穴があるという、いい例だと思う。

一昔前は、なんでもかんでもが朝鮮半島から伝わったというのが定説となっていた。

学者の気持ちはわからないではないが、新しい発掘物が出てくると、その定説は見事に覆される。

先走った話しは面白いが、事実のほうが重要なのだ。

専門家も丹念に調べているが、銅鐸の使用用途は限定されていない。

音の鳴る仕掛けをもっているので、楽器かもしれないといい、祭祀の道具だったかもしれないという。

いずれにせよ、日本にない作り物だったということは確定している。

長江文明

中国大陸は黄河文明と長江文明に別れている。

長江文明 - 倭人が来た道

長江文明 – 倭人が来た道

http://blog.goo.ne.jp/isaq2011/e/5187422b9f9799dae871f4aa72386339

長江文明の民(江南人)のY染色体ハプログループはO2が中心で、黄河文明の民(漢人)のO3とは文化的、民族的に異なる。

 4,200年前に起こった気候の寒冷化によって、北方の黄河流域から漢族が南下してきた。彼らは畑作・牧畜民であり、長江中流域の民を雲南省や貴州省の山岳地帯やインドシナ半島にまで追いやった。これは現代のチワン族や苗(ミャオ)族など少数民族の先祖である。

古代史探訪
http://enkieden.exblog.jp/21873120/


越(えつは紀元前600年頃 – 紀元前334年)は中国浙江省の辺りにあった国だ。


弥生人の大半は、中国江南地方から日本へ移住した呉人、越人と判明したといわれている。

これは遺伝子の特徴を比べて得られた結果である。

http://www.eonet.ne.jp/~temb/4/2_1.htm#nihongoso

百越とよばれる人々はY染色体ハプログループO2(O2a/O2b)系統に属していたとされる。

O2a/O2bは長江文明の担い手であったが、長江文明の衰退に伴い、O2aおよび一部のO2bは南下し百越と呼ばれ、残りのO2bは西方及び北方へと渡り、山東省、朝鮮半島、日本列島へ渡ったとされ、このO2b系統が呉や越に関連する倭人と考えられる。ウィキペディア

百越の使う言語は古越語を使用し、北方の上古漢語を使う華夏民族とは言語が異なり、言葉は通じなかったとある。

また、1999年には江蘇省(呉)と太宰府の遺跡の人骨がDNA分析によって一致したと報告されている。

つまり、百越の人達は中国人ではなかったという事である。


長江文明の発見から稲(ジャポニカ米)の原産が長江中流域とほぼ確定され、稲作の発祥もここと見られる。日本の稲作もここが源流と見られる。

文化面では、稲作、断髪、鯨面(入墨)など、百越と倭人の類似点が中国の歴史書に見受けられる。ウィキペディア

面白いと思ったのは、なれずし(熟鮓)であり、百越にも存在しており、古い時代に長江下流域から日本に伝播したと考えられている。


漢字の文化

日本漢字には訓と音がある。

この訓読みのことを呉音、音読みのことを漢音という。

中国にも呉音、漢音という呼び方はある。

呉音というのは江南の南朝式発音、漢音というのは長安のことばである。

唐の時代になると呉音は南方訛りの音としてさげすまれるようになる。

それと、日本には独自の和音というのがある。

火(呉)カ、 (漢)カ、 (和)ひ・ほ
名(呉)ミョウ、(漢)メイ、 (和)な
香(呉)コウ、 (漢)キョウ、(和)か


第135話  日本の漢字音・呉音と漢音
http://ocra.sakura.ne.jp/135.html


中国から入った漢字だが、呉の影響が大きく出ている証でもある。


さらに、着物のことを呉服といい、新潟のことを越後という。

地名等は諸説あるのでここでは追求しないが、関係があるのは確かだ。

日本人に良く似た民族の存在

タイの少数民族、たとえばアカ族の村の風習も日本の風習に似通っていたりします。村には鳥居があってしめ縄もあったりします。村に残っている意匠、デザインが日本の古墳の壁面などにあったりもします。

三輪隆山岳民族写真館 アカ族

三輪隆山岳民族写真館 アカ族

ミャオ族の祖先が日本の弥生時代を始めた!という説もある。

【長角ミャオ族】梭ガ村

【長角ミャオ族】梭ガ村 西遊旅行


ミャオ族の容姿が日本人によく似ていたり、高床式の倉庫もあり、食文化でも共通するものが多いからである。


いずれも説としては面白く興味深いのだが、祖先であるといいきってしまうのは問題も多いが何らかの影響は受けているのは間違いないだろう。


さて肝心の銅鐸だが、長江文化に鐃(にょう)というものが存在する。


銅鐃(にょう)

長江中流域の洞庭湖周辺の地に3,400年前の青銅器が大量に出土したが、山頂や山麓などで1mほどの深さに埋められていた。出土物は銅鐃(どうにょう、叩いて音を出す軍楽器)が多く、開口部を上にして埋められた。

長江中流域から出現した「楚」はこの風習をもっている。山東省南部にもこの風習がある。山東省南部は春秋戦国時代には楚の領土だったことがある。銅鐃を国の境界線近くの丘に埋めて結界としたのか。

日本の歴史と日本人のルーツ
http://ameblo.jp/shimonose9m/entry-12056488900.html

銅鐃

銅鐃


鉦(かね)・銅鑼(どら)の類。

古代中国では舌をもたない大型の鈴をいい,のちには舌をつけたものも指す。

コトバンク

吉野ヶ里遺跡(弥生時代)-銅鐸

吉野ヶ里遺跡(弥生時代)-銅鐸


日本の銅鐸の謎にこんなものがある。

副葬はされていない、単独または銅剣・銅矛と埋納されている。

楽器としても使用されたようだが、祭器でもあったらしく確かな用途が不明。

なぜ山の斜面の地中に浅く埋められたのか。

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銅鐸は国境に兵士の代わりとして浅く埋める

この疑問に対して、「銅鐃を国の境界線近くの丘に埋めて結界とした」という推理は納得がいく。

銅鐸が軍楽器だったら、まじないのために兵士の代わりとして国境に埋められているのは理解できるし、もし戦闘になったら、この銅鐸を堀起こして、戦いを鼓舞する備えにしたのではないかというのは、考えすぎだろうか。

古代中国王朝の兜

古代中国王朝の兜

(私には、銅鐸が兵士の兜のように見えてしまう)

埋納状況については村を外れた丘陵の麓、あるいは頂上の少し下からの出土が大部分であり、深さ数十センチメートルの比較的浅い穴を掘って横たえたものが多い(逆さまに埋められたものも二例ある)。ウィキペディア


「開口部を上にして埋められた」という中国の銅鐃の記述に当てはまる。

土器や石器と違い、住居跡からの出土はほとんどなく、また銅剣や銅矛など他の銅製品と異なり、墓からの副葬品としての出土例は一度もないため(墳丘墓の周濠部からの出土は一例ある)、個人の持ち物ではなく、村落共同体全体の所有物であったとされている。ウィキペディア

祭りの度に繰り返し掘り出し磨かれたためという。かつての東南アジア方面の銅鼓も日ごろ地中に埋めてあり、祭りの時や葬儀の時取り出して使用していたという。

大変事にあたり神に奉納したのではないかという説。


大変時というのは、おそらく戦争だと考える。

戦争に勝てば祭をするし、負ければ葬儀をする。

そんな時、銅鐸が軍楽器で勝利を祝うとすれば、掘り起こして使ったり、負けた時は壊されたりしたのは考えられる。


銅鐸は、銅剣や銅矛に匹敵する弥生時代の代表的な製作物であるが、『古事記』『日本書紀』などの古文献には、全く登場しない謎の青銅器である。ウィキペディア


『古事記』『日本書紀』は飛鳥時代に、書かれていた書物で、当時の中国人から見たら長江文化の産物など、特筆すべきではない迷信に過ぎなかった。

また、長江の倭族は縄文の人達と溶け込んでしまい、過去の迷信だったのではないだろうか。


長江文化の倭人は戦闘的ではなかったとあり、黄河文明の漢人達の圧力に、まじないの力を借りたのではないかと思う。

銅の鐘や銅鑼(ドラ)は音楽というより、軍楽器と考えれば、あの鈍い音も納得がいく。

音色よりも、リズムをつけて行進や攻撃に使っていたと考えたほうが分かり易い。

これが私の銅鐸考である。

さて、専門家達は将来どんな説明をしてくれるのだろうか。

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