ヘトマトの謎-7 ついに謎は解かれた

29[1]

五島福江島の崎山地区と沖縄県八重山郡竹富町の崎山。

色んな共通点がある。  

1.平家の落人伝説

これは、二つの地域だけにあるのではないが、沖縄の竹富町にまであるのは驚いた。

1.沖縄竹富町には平家の落武者「赤山王」の伝説がある(五島にもある)

2.ジュングヤ(十五夜祭)で、綱引きがある。(ヘトマトにもある)

3.ジュングヤ(十五夜祭)は複数の出し物がある。(おくんちやヘトマトと同じ)

4.竹富島には28か所の御嶽(オン)が存在し、信仰の対象となっている。 (崎山地区にも回りは山で、鬼岳(オンダケ)と言う山がある。)

5.2月3月は、沖縄近海を鯨が回遊している。

鯨漁の事だが、イルカと鯨は同じ種類である。「クジラ」はヒゲクジラ類とハクジラ類に分けられ、ハクジラ類の中で、成体になっても体長4~5m以下の種をイルカと呼ぶ。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q149213239

沖縄ではイルカ追い込み漁を昔からやっていた。

島では、イルカや鯨は漁の対象なのだ。

五島福江島の崎山地区と、沖縄県八重山郡竹富町の崎山にも同じ暮らしがあった。

6.沖縄に牛が泳いでいる内に鯨になったと言う話がある。 牛と鯨は、島の生活には欠かせないものだったと理解している。

 

どうだろうか。

沖縄の崎山 (竹富町)は、元は琉球王国時代の17世紀に波照間島の島民を強制移住させた開拓村である。2005年3月31日の人口は4人だった。  

沖縄の崎山 (竹富町)と五島福江島の崎山地区との関係が公的記録としては残っていない。

ただ、証拠はないにしても、状況証拠では可能性大である。  

私の結論 五島の「ヘトマト」が、その島の中では特殊な祭として存在した理由は 「ヘトマト」が、五島福江島、崎山地区で自然発生したものではなく、遠い沖縄の崎山とリンクされたものだからである。  

「ヘトマト」は牛の供養と言われているが、実は鯨(イルカ)供養のお祭りだった。

「千絵の海 五島鯨突」葛飾北斎画 1830年ごろ

五島福江島、崎山地区は捕鯨で潤っていた時期があった。

捕鯨には大勢の人の協力が必要である。 色んな地区の人が、力を合わせるために、祭を作り上げた。

このプロデューサーは、沖縄の崎山をよく知る人物だったと思われる。沖縄の崎山が故郷だったのかも知れない。  

祭を作るには、財力と人脈が必要である。

その財力は鯨漁で、巨額の富を得ていた組織捕鯨(鯨組)が、その背景にあった。

ヘトマトの謎を解く

祭は、鯨の到来や感謝や追悼の意味を込めて踊られる「鯨踊り」がスタートだった。

信仰深い五島人には、「鯨」の鎮魂の祭は当然受け入れられる。  

祭のプロデューサーは祭の演目を作り上げた。

「ヘトマト」の行事は、突拍子がないと言われているが、実は鯨漁と深い関わりがあったのだ。

まず「羽根つき」だ。

ヘトマト 撮影アートワークス

「羽根つき」の、付く時の「コーン、コーン」という音に着目したい。

もし、鯨が浜に寄せられたら、引き上げなければならない。

そうすると大人数が必要になる。それも、のんびり集まるのではない。大至急なのだ。

「ヘトマト」の「羽根つき」は酒樽の上に乗る。

酒樽とは、物見櫓の事である。

鯨を捕獲しているという事は、その村には男衆がいない事になる。

鯨が浜に現れたら、村に残った者達、おそらく子供か娘が物見櫓から木を叩いて、村中に知らせる。

お寺には開版(かいばん)というものがある。時間を知らせる時に叩いて音を鳴らす道具だ。それと同じ仕組みだろう。

開版(かいばん) 萬福寺http://kotohurari.web.fc2.com/temple/manpuku01.html より

実際には、子供たちだと思うのだが、昔なので少し大きくなった男の子は、親とともに漁に出ていったのと思われる。

なので、みんなに知らせる役目は、大きい女の子だったと推測される。

ここに、若い娘が樽の上に乗って羽子つきをする理由があった。

ヘトマトでは樽の上に乗るのは未婚の女性という決まりだ。

これは晴れ着の女性を参加させるという事でまつりを盛り上げる役目もある。

そして羽根つきの音は、鯨が浜に寄せられた時の知らせと同じ、木を叩いて音を出すという事が祭りのスタートになる演出を考えたのである。

 

ヘグラ(スス)を塗る

これは魔除けのためと思われるが、祖父が五島出身の漫才師、ロンドンブーツ田村淳さんの話が参考になる。

僕の祖父は五島列島で漁師をやっていました。祖父は刺青を入れていました…左腕に『田村』という刺青です。漁に出て沖で事故が起きて溺死した場合、水死体は誰だか判別できなくなるから刺青を入れたと話していました。仕事に対する覚悟の表れなんだと感動したのを覚えてます。

ロンブー・田村淳

https://www.wacoca.com/430041/田村淳-%E2%80%AA僕の祖父は五島列島で漁師をやってい/

昔から漁師は入れ墨を入れている人が多かった。それは魔除け以外にも自分を識別できるようにするという意味もあったのだ。

それ以外にも竈の火が消えないようにという、食の豊かさの祈りもあったのだと思う。

 

「羽根つき」の次に行われるのが、「玉蹴り」である。

ヘトマト 撮影アートワークス

 元々は白浜海岸に潮水を溜めて泥沼をつくり、泥沼の中でわら玉を相手陣営に蹴り込んで勝負を争っていた。

この「白浜海岸に潮水を溜めて泥沼をつくり」は、鯨が浜近くに寄せられた時の様子である。

近くまで引き寄せられた鯨は、網をかけられていたはずである。

あの手この手で、まだ息のある巨大な鯨を弱らせなければならない。

男衆は、ふんどしいっちょで遠浅の海に入り、格闘しているのだ。

「ヘトマト」のへぐらを塗った締め込み姿は、 真っ黒い鯨に向かっている若者達をも表現していると思う。

五島鯨突|葛飾北斎

鯨と「玉蹴り」の玉では大きさが違いすぎが、 福岡の筑前一ノ宮、筥崎宮の玉取祭は、玉せせりと呼ばれ、「玉競り」と書く。

なぜ玉かというと、「多宝如来(たほうにょらい」からきている。

前に書いた「鯨の供養」の件には鯨供養石造五重塔 多宝如来と釈迦如来と法華経見宝塔品の諸仏の名を刻むとある。

鯨は単なる獲物ではない。

ある時は神様でもある。鯨は「宝珠」と同じ存在なのだ。

その証拠にヘトマトの珠(たま)をよく見てほしい。ちゃんと尻尾が付いている。

玉せせりの玉

そこで競い合うのは、集団の常である。

より力のあるものは、鯨組でも地位が上がる。

また、勇者という証なのだ。  

「玉蹴り」の勝者には、鯨に立ち向かう勇者という賞賛が生れるのだ。

 

次は「綱引き」だ。

ヘトマト 撮影アートワークス

これは、日本各地にもあるが、沖縄の﨑山の祭ジュングヤ(十五夜祭)でも、綱引きがある。

鯨が浜に寄せられ、息絶える。

そうなれば浜に引き上げなければ解体が出来ない。

村人達は、総出で鯨に縄をかけ、引き上げるのだ。

あまりにも重たいので、 「牛を使って引いていた」という文献が残っている地域もあった。

これは、綱引きである。  

 

大わらじ

浜に鯨を引き揚げたら解体作業をする。巨大な鯨は、捨てるところなく利用されていく。

解体された部位は、ワラのむしろに包んで、陸へ運ばれていったのだろう。

ここでワラが登場する。

大きな塊の鯨の部位をワラで包んで、若者達が村へ帰る。

ここで「大わらじ」の原型が見える。

ヘトマト 撮影アートワークス

また「ヘトマト」のクライマックスの「大わらじ」を見れば、鯨を模倣しているようにも見える。

隣の長手地区でも稲わらで編んだ大きなかかとのない草履を長手神社に奉納する。

しかし「ヘトマト」の「大わらじ」は人が乗る大きさである。

さらに、大草履のつのまたの所に牛のためにといって小草履を欠かさずくくりつけているという。

これは紋九郎鯨の伝説から来ているのではないか。

大わらじと、小さいわらじ。まさに親子鯨である。    

ヘトマト 撮影アートワークス

さらに人を乗せて跳ね上げるのは、鯨の潮吹きとそっくりではないか。  

もちろん、女性を乗せるというのは「ヘトマト」オリジナルかも知れない。

他の祭りを見ても、神事には女性が参加するものは殆どない。

ヘトマト 撮影アートワークス

巫女さんや踊りは別だが、道行く人を、無理矢理引っ張り出してわらじの上にのっけるというのは、神事と言うよりイベントに限りなく近い。 

なので、鯨の潮吹きを模すと共に、イベントを盛り上げる為の演出だったのだ。

 

「ヘトマト」は鯨の祭として始めたのだが、鯨漁が廃れると共に、 五島で最も大切にされている牛の祭として続いていったのだろう。

沖縄では、牛が鯨になったという伝説がある。

すんなりと変化していったと思われる。  

 

そして「ヘトマト」の名前だが沖縄では、鯨類(イルカ)はピトゥという。そして祭はウマチーである。

「ピトゥ・ウマチー」 これが「ヘトマト」になった。  

祭の名前はなかったのかも知れない。

いや、単に「鯨(イルカ)祭」と言っていたのかも知れない。

しかし、祭のプロデューサーは「沖縄」を故郷に持つ人物だった。

だから、この祭を「ピトゥ・ウマチー」と密かに言っていたのだろう。

 

沖縄では夏に行う行事だから「祭」なのだが、五島では正月の神事として行われる。

鯨は冬から春にかけて、沖縄に現れるからである。

この祭りは「鯨祭」だったはずだ。しかしプロデューサの口ずさむピトゥ・ウマチー」のほうが、インパクトが有ったので、島民に広まっていたのだと思う。

いつしか、「ピトゥ・ウマチー」が祭の名前になり、時代が経つに連れ「ピトマチ」→「ヘトマト」と呼ばれるようになったのだ。

祭の参加者は沖縄出身者が多く、すんなりと定着していったに違いない。  

 

同じように作られた祭りが、長崎の「おくんち」である。おくんちが出来たのは、対キリスト教の為である。

ヘトマトもそんな影の側面があったのではないだろうか。

五島のキリシタンは2000人ほどと言われているが、徳川家康による禁教令により1790年代の初めには五島にいたキリシタンはほぼ壊滅したと言われている。

しかし寛政9年(1797年)、領主の住民を増やす政策で大村藩外海地方のキリシタン農民たち108人を移住させている。その後も3000人余りが宇久島を除く五島列島の島々に居住し、隠れキリシタン(潜伏キリシタン)となっていった。

ヘトマトは、一応神事になっているので、隠れキリシタンをあぶり出す意味もあったのではないかと推測される。

単にお祭り好きのプロデューサーの気まぐれで作られたにしては、長く続いており、参加者も多い。影で幕府の支援があったのではと思っている。

 

長い間「ヘトマト」の謎を追っていた。

いろいろ思索を続けたが、思いもよらぬ所にたどり着いてしまったという感がある。  

 

私の家は、代々船乗りである。

父は五島の宇久島出身、母は長崎だったが母の実家も船乗りだった。

船乗りの家では、サラリーマンを陸人(おかびと)と言っていた。船乗りは、海人なのだ。

 

私の家系の男達は、みんな海で死んでいった。父も祖父も海の事故で帰らなかった。

母は、私を海に行かせなかった。そして大学へ行き、結局カメラマンになった。  

海で死なせたくなかったのだろう。

 

海の男達は寿命を全うする事は少ない。だからこそ祭が必要だったのだ。

神に祈り、仲間と団結し酒を飲み語らい、そして又海に出る。

 

沖縄も五島も、今思えば似ている。 船を操る海人たちにしてみれば、繋がりがあっても何の不思議もないだろう。

今回の「ヘトマトの謎」は状況証拠と推理だけで構築していった。

私より、知識の深い人が確証してくれたらと思う。

 

不思議な名前の祭「ヘトマト」 この謎解きが、正解であると信じている。

 

ヘトマトの謎-後書き

ヘトマトの謎-7 ついに謎は解かれた” に対して4件のコメントがあります。

  1. 福江島出身27歳 より:

    初めまして、こんにちは。
    地元の民話について検索し、辿り着きました。
    とてもスッキリしたので、お礼を言わせてください。
    ありがとうございます!!

    「へトマト」の由来は私も大変気になってまして、15年前に地元で郷土史を読んでみたり研究者を訪ねたりしたのですが、
    「たぶん、何かの略」という結論で行き詰まったままモヤモヤとしておりました。

    「へトマトの謎」を1から順に読み進め、まさか沖縄に至るとはたまげました!
    かなり吃驚しましたが、とても腑に落ちました。

    五島の最も新しい祭で「福江まつり」がありますが、こちらは「町興しの為に、青森からねぶたを購入」した所から始まり、後々バラモンねぶたや紋九郎鯨ねぶた等を作っています。
    私の子どもの頃はねぶたとハネトがメインだったような気がするのですが、いつからかソーラン節も加わってました…
    今も演目を色々と取り入れて増やしているようです。
    へトマトが始まった頃も、「鯨組を鼓舞して、村に潤いを!」と必死だったのでは…と思いました。

  2. artworks より:

    コメント有り難うございます。
    何の物証もないながら、自分なりの結論に達し興奮したのを覚えています。
    五島は古代とても重要な場所だったと確信しています。
    共感していただく人がいて、とても嬉しく思います。
    まずはお礼まで

  3. 五島市在住 より:

    はじめまして、じっくり読ませて頂きました。面白かったです。
    「ヘトマト」は、1月16日が恒例でしたが、今となっては、日曜日開催となりまた。
    1月に行う事から「やぶさめ」からの「的をいる」から、変形して「ヘトマト」になったなど、何かに書いてあったような!
    竹富島との繋がり説も面白かったです。
    ありがとうございました。

  4. artworks より:

    コメントありがとうございました。ヘトマトには2年前に行きました。外人さんたちも参加していていい祭りでした。五島はいろんな謎がたくさんある地域です。又行きたいと思います。

コメントを残す