長崎の原風景(4) 航海・漁業の守護神「娘媽(ノーマ)」が野母崎の語源

昔の長崎に人間はどれくらいいたのだろうか。

 

手がかりは肥前風土記である。8世紀に書かれたらしいと推測されている。土蜘蛛の記述もこの本にある。

長崎、佐賀に関して詳しく載っているわけではないが、それなりの記述はある。

人口が少なすぎる彼杵郡(そのきぐん)

風土記は各地区の人口や集落を記述している本である。内容は福岡の太宰府から近い順に記述がある。

長崎の地域では 松浦郡・郷11里16 高来郡・郷9里21 とある。

ところが彼杵郡(長崎市の大部分)は郷4里7としか記述がない。

 

彼杵郡はかなり大きい。

肥前風土記の信憑性については専門の先生方に任せるが、記述がない理由として学者の方々は、その時代、長崎には人がいなかったからと解釈している。

 

風土記の考古学⑤肥前国風土記の巻」

風土記の考古学⑤肥前国風土記の巻」小田富士雄編の巻頭地図(色は私が加筆)  

 

そうだろうか。

古代の彼杵郡は、現在の佐世保市一帯から大村湾を取り囲む地域、それに長崎半島に至る広い範囲であり、その中には四郷があった。すなわち彼杵郷、大村郷、浮穴郷、周賀郷である。彼杵郷は佐世保から彼杵に至る地域、大村郷は大村市一帯、浮穴、周賀の二郷は所在不明であるが、ただ周賀郷は野母崎付近とする説が有力である。
(『長崎県史』古代・中世編)

そして、肥前風土記には、郡の北にある郡の浮穴(うきあな)の郷に、土蜘蛛の「浮穴沫媛」がいて、天皇に刃向かったので誅したとある。

浮穴(うきあな)の郷が何処であるか不明だが、彼杵郡である。

そして、この地に反大和勢がいたことは間違いない。

長崎の彼杵郡には反大和勢力の地域なので、調査できなかったというのが本当のようである。

 

しかし、神功皇后の伝説は長崎市内付近まである。神功皇后は三韓征伐をしたという女傑である。彼女の伝説は日本中にあるが、長崎の彼杵郡にも多い。

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長崎の人間ならわかると思うがその伝説の場所は彼杵郡の海岸沿いなのだが、長崎半島の先の方、つまり野母崎半島にだけない。

そして神功皇后の父は開化天皇玄孫・息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)で、母は天日矛裔・葛城高媛(かずらきのたかぬかひめ)という。

ここに葛城が出てくる。

 

神功皇后自体が伝説といわれているので、何の確証もないのだが、野母崎半島にだけ伝説がないというのも気になる。

伝説はあったけど、なくなったのか、もともと野母崎半島に人がいなかったのか。

しかし、この章にも書いたが、野母崎には熊野から流れ着いた漁民が住み着いたとある。

これは何を意味するのだろうか。

野母崎は、ただの西の果てではない。

長崎野母崎jpg

 

660年、唐と新羅が連合して百済に侵攻した。百済の救援要請を受け倭国は朝鮮半島に援軍を送るが、663年「白村江の戦い」で大敗した。 唐・新羅連合軍に日本本土を侵略されないよう、対馬に防人や烽(とぶひ)を設置して侵略に備えた。

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長崎名勝図絵(江戸時代初期に書かれたもの)に肥の御崎(野母崎)に警固所が有ったことが記されている。

長崎名勝図絵 巻之二下   南邊之部 164海門山(文献叢書 142~146頁  所在地 長崎市野母町) 長崎の南七里 野母浦の高山。他の山に接せず、これだけが高く聳えているので、登って見ると、周囲が果てしなく見渡せる。

権現山、日の山、火の山とも称する。山上の木立ちの中に、火山権現の祠がある。夜になると、山の頂に燈火が現れその光は尋常のものではない。人皆これを霊異とした。外国の船が入津するに当たって、この燈火を目印にした。

野母崎は、霊異の現れる場所だったのである。

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野母崎の由来

「野母」という地名の由来だが

無人の野っ原に老母が住居を構え村落をなしたので、この老母の功績を後世に伝えようと、“野の母”で野母と名付けられた

と記されている。

これほど古代重要だった野母崎の由来としては、こじつけに思える。

単純に熊野の「野」が一文字、後の「母」が何かということである。

熊野の母という話しに、当てはまるものがある。

それは役行者の話しである。

 

役行者とは日本最強の霊能力者だ。

多くの修験道の霊場に、役行者を開祖としていたり、修行の地としたという伝承がある。

 

17歳の時に元興寺で孔雀明王の呪法を学んだ。その後、葛城山(葛木山。現在の金剛山・大和葛城山)で山岳修行を行い、熊野や大峰(大峯)の山々で修行を重ね、吉野の金峯山で金剛蔵王大権現を感得し、修験道の基礎を築いた。

文武天皇3年(699年)5月24日に、人々を言葉で惑わしていると讒言され、役小角は伊豆島に流罪となる。

役小角が黙って流罪になったのは、朝廷が彼の母親を人質にしたからだ。

役小角は朝廷の言うことを聞かない「反大和」である。

役小角は伊豆島に流されたが、役小角の配下や関係者一族も朝廷に嫌われている。

 

山を修行の場としていた役小角(修験道)は、権力にへつらわない山の民である。

早い話、特殊な能力を持つ役小角(修験道)は大和を追い出されたのだ。

修験道は広く日本に浸透しているが、朝廷や為政者からは疎まれていた。

管理できないからである。

 

長崎の野母崎に流れ着いたのは漁師ではなく、役小角(修験道)一派だったのではないだろうか。

野母崎には熊野神社が二つもあり、さらに中老の葛城の言い伝えもある。

その一族が、朝廷に捕らわれている役小角の母のことを想い、熊野の母の御崎、すなわち「野母崎」と名付けたのではないだろうかと推測される。

媽祖(まそ)

しかし、違う可能性も発見した。媽祖(まそ)の話しである。

http://rekisisuki.exblog.jp/17797096/

鹿児島県野間岬の野間岳、長崎県野母崎の権現山、海の女神を祀る。

娘媽神女であるニャンマとかニャンニャン、ロウマともいう。 媽祖(まそ)は、航海、漁業の神で、台湾、福健省など華南地方海岸一帯で信仰されている。 「娘媽神」「媽祖」「天妃」「天后」などいろいろな呼び方がある。ロウマが訛って野間になったといわれる。

 

http://iwai-kuniomi.cocolog-nifty.com/blog/2014/06/post-1e63.html

海辺の民「蚤民族」(アタ族)が祀りすがった神が「にゃんにゃん」である。

正式には「媽祖(まそ)」または「娘媽神女」で、別名「天后」「天妃」ともいう。

この神は、海を放浪するアタ族のために、自ら海中に身を投げて航海の安全を祈ったという伝承を持ち、南は海南島からマカオ、台湾、沖縄に至るまで、広く祀られている。

この神の溺死体が漂着したところが南さつま市の野間岬である。

野間岳の中腹にある「野間神社」の由緒書きには「娘媽」の死体が野間岬に漂着し たのでこれを野間岳に祀ったと記されている。

「娘媽」は「ノーマ」または「ニャンマ」と読む。

媽祖(まそ)は、現在の長崎ではランタンフェスティバルに媽祖行列という行事が誕生している。

中国沿海部を中心に信仰を集める道教の女神である。

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伝説 長崎に来航する唐船には、必ずこの媽祖が祀られており、長崎港に碇泊中は、唐船から降ろした媽祖を安置する祠堂が必要となった。

しだいに来航する唐船の数が増加して、郷幇(同郷出身者の仲間組織)が結成されると、その集会所が安置場所とされるようになった。この集会所がのちに唐寺として整備されたのである。

故に、輿福寺をはじめとする福済寺や崇福寺の創建当初は、その創建当初の形態は、媽祖を祀る道教の桐堂としての性格が強かったようである。 http://www.geocities.jp/voc1641/chinagasaki/1000rekisi/1421maso.htm

この媽祖伝説が地名の元になったのは十分考えられる。

媽祖と呼ぶのは福建方言で母親の意である。風浪危急のときは媽祖と呼べば神がざんばら神のまま駆けつけてすぐ救ってくれる。もし天妃と呼べば冠をきちんとかぶって現れるので間に合わない恐れがある。したがって船乗りは媽祖と呼ぶのが常であったとも言われる。

 

媽祖老媽(のうま)・娘媽・菩薩(ぼさ)・天妃・媽祖菩薩、天上聖母などと、いろいろの名で呼ばれている。

媽祖に母親の意味もある。

媽祖は「ノウマ」と呼ばれている。そして媽祖は母親の意がある。

「ノウマ」の母

「野母」の地名にぴったりである。

無人の野っ原に老母が住居を構え村落をなしたので、この老母の功績を後世に伝えようと、“野の母”で野母と名付けられたという由来にもぴったり当てはまる。

間違いないだろう。

野母崎文化圏

長崎半島(野母崎半島)の殿隠山(とのがくれやま)の山裾に、和銅2年(709)、行基(ぎょうき)菩薩開祖の観音禅寺という曹洞宗の寺がある。(略) なぜ野母崎半島の先端にこんなりっぱな寺院があるのかというと、昔からこの港は重要な貿易港で中国へ渡る要地だったからだ。

http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken0612/index1.html

野母崎に一つの文化圏があったことは間違いない。

さらに、古い時代の古墳の遺跡がある。脇岬遺跡という。

時代は 縄文時代~中世で墳墓・貝塚・遺物包含地が発掘された。

 

肥前風土記にはそんな記述などない。 過疎地で、土蜘蛛の里と書かれているだけである。

しかし、立派な寺院が有り、大和朝廷と拮抗した力を持つ葛城一族漂流伝説、宮中で歌われていた「中老」。

火の御碕という名前。

色んな状況証拠で一つの仮説が浮かび上がる。

 

野母崎には「反大和」の裏大和があった。

たぶん、本拠地になっていたのだろう。

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肥前の土蜘蛛の女性の指導者達の謎。

それは邪馬台国へとも繋がりがあるはずだ。

なぜなら、火の御崎の神社の巫女なら、「火巫女」となる。「卑弥呼」に繋がる。

 

「卑弥呼」は鬼道をつかっていた。鬼道は道教である。

媽祖伝説は道教である。 修験道は仙人と深い繋がりがある。

仙人も道教である。

 

絡まり合った謎をほどけば、真実が見えてくるはずだ。

 

長崎の原風景(5) 完結

長崎の原風景(4) 航海・漁業の守護神「娘媽(ノーマ)」が野母崎の語源” に対して5件のコメントがあります。

  1. 俞 長安 Yu Chang An 幼名 ゆう このむ(好) より:

    筆者さま:貴文に触れ、大変感激です。①私は1934年に野母で生まれ育った中国人です。②現在マカオで南蛮史を勉強しながら老後をすごしています。③18歳で新中国へ渡り、北京中央の日本向け雑誌社で約20年間、記者・編集を担当、文革も無事でした。
    ~長々と自己紹介、ごめんなさいね。貴文に感激する当然の理由を強調したかっただけなのです。貴方がたの歴史に対する真剣な態度と、郷土へのこよなき情愛とに、心から敬服いたします。今後ともいろいろとご教示ください。お暇にはマカオにもどうぞ・・・ユウ

  2. artworks より:

    有り難うございます。野母崎はただの岬でないと思います。まだまだ確定的な証拠がない、仮説の域を出ませんが、今後も調べていきたいと思います。お体ご自愛下さい。

  3. おいさ より:

    野母崎町脇岬生れ育ちです。
    今は、他県で仕事していますが土地柄の文化とか
    ルーツに関心が強く、閲覧させて頂きました。
    驚くばかりです。ありがとうございました。
    もっともっと自分の事を含め、知りたくなりました。

  4. artworks より:

    コメントありがとうございます。古代や中世の長崎は今と全く違っていたと思われます。そんな中で野母崎は重要な拠点だと考えています。すべてが推論ですので、なかなか日の目を見ないのですが重要な資料が見つかればと切に願っている次第です。

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