日本独自の礼「柏手」を日本に伝えた人

正月の神社への参拝のとき、皆さん当然のように柏手を打つ。

数ある宗教の中で、手を合わせて音を立てる所作は神道だけである。

仏様もキリスト様もアラーの神も、拝む時には静かである。

この柏手が日本人に根付いたことは、不思議だといえる。

なぜパンパンと叩く柏手が神道の参拝になったのだろうか。

柏手

柏手(かしわで)のルーツ

柏手では、古代から行っていると「魏志倭人伝」にも書かれている。

魏志倭人伝には、邪馬台国などの倭人(日本人)の風習として「見大人所敬 但搏手以當脆拝」と記され、貴人に対し、跪いての拝礼に代えて手を打っていたとされており、当時人にも拍手を行ったとわかる。ウィキペディア


邪馬台国では「搏手」を行っており、これは日本のしきたりだと書いている。

という事は、中国では柏手は行っていなかったということだ。


しかし、柏手は中国がルーツである。

魏志倭人伝を書いた時期は、中国では行われなくなっていただけである。

私も前に拍手のルーツを調べたことがある。

宇佐神宮 死拍手

宇佐神宮 死拍手
宇佐神宮は謎の多い神社で気になっていた。 朝6時30分くらいに、宇佐神宮へ行き撮影した。 素晴らしいの一言に尽きる。 思っているより...


周時代に「振動(しんどう)」という拝礼の方法があり、周礼では、「振動」は敬い恐れおののいたときに手を打つ礼法であるとされる。
現在でも、神社の参拝などで柏手を打つが、この礼法も周時代の作法が、呉を介して倭人に伝わり、現在まで引き継がれていると考えられるのである。

第267回 中国古伝承のなかの倭 金印奴国の滅亡
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku267.htm


周(しゅう)とは紀元前1046年頃 – 紀元前256年に栄えていた中国の王朝である。

周の後に、「秦」。

「秦」の次が「漢」王朝、そして三国志の時代になっていく。

中国人は、倭人を「呉の太伯の子孫」ともいっているが、呉は、西暦222年から280年の国である。

その時代はすでに邪馬台国が存在しているので、倭人が「呉の太伯の子孫」とはいえない。

しかし、呉からはさまざまな文化が伝わっているので、子孫とまではいわないが、強い影響があるのは事実である。

よく知られているのは、呉服である。

ご存知のように和服は日本では呉服という。

漢字も、音読み訓読みがあるが

音読みが「漢」の読み方で、訓読みが「呉」の読み方である。

未〔ミ〕、領〔リョウ〕は呉音である。

時代的に言うと、呉よりもはるか昔の中国で、柏手(かしわで)は行われていた。

しかし、魏志倭人伝の時代では、本家中国では柏手(かしわで)は行われなくなっていたという事である。

実は柏手だけではなく、骨を焼く占いも中国の殷の時代に行われていた。

殷は秦の前の王朝である。


弥生時代に中国から柏手が日本に伝わってきたことは確かである。

誰がその礼法を伝えて実行したのだろうか。

一番有力で可能性のある人物の名前が歴史に残っている。

その人は、徐福である。

徐福(じょふく)

徐福は日本の学界ではやや際物(キワモノ)扱いである。

しかし、中国では実在の人物として認定されている。

徐福


徐福は、中国の秦朝(紀元前3世紀頃)の方士である。

始皇帝の命を受け、3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、五穀の種を持って、東方に船出し、「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て、王となり戻らなかったとの記述がある。ウィキペディア

始皇帝は紀元前210年になくなっている。

日本の事が中国の文献に登場するのは、魏志倭人伝が最初で3世紀の事である。


徐福が紀元前210年前後

邪馬台国が200年以降

その間400年である。

これが、ほかの人たちが徐福の事をあまり持ち出さない理由だ。


邪馬台国や他の国が九州で国の形をとりはじめたのは、いつぐらいからだろうか。

残念ながら記録が残っていないのでこれ以上は憶測になる。


ただ、倭人伝には少し記録がある。

邪馬台国は、元々は男子を王として70 – 80年を経たが、倭国全体で長期間にわたる騒乱が起こった。そこで、卑弥呼と言う一人の少女を女王に共立することによってようやく混乱を鎮めた。ウィキペディア

ここに80年という数字が出てくる。


少し水増ししても、邪馬台国が出来上がったのは西暦100年くらいからだろうか。

となれば300年間。

この時間は長すぎるだろうか。


柏手

「この礼法も周時代の作法が、呉を介して倭人に伝わり、現在まで引き継がれている」という見解が一般的だ。

しかし呉は222年 – 280年の国である。

邪馬台国の時代にはあうが、倭人伝では、日本独自の礼法だと書いている。

その時代、呉では柏手の礼法が残っていたとは思えないのだ。


魏志倭人伝の「魏」という国は、三国志に出てくる「魏」である。

呉も三国志に出てくる。

「魏」の本では、柏手は日本独自だといっている。

となれば、同時代の「呉」でも柏手の礼法はなくなっていると考えたほうが、正しい。

周の礼法が、秦と漢の時代を経て呉にだけ伝わったと考えるほうが無理があるのではないだろうか。


徐福は方士である。

医術や錬金術を行う宮廷科学者である。

当然、宮中の儀式は知っているはずである。


拍手は周の拝礼作法の一つだ。

今の日本のように、一般の人がやる所作ではない。

宮中の礼儀作法の一つなのだ。


王勇著 中国から見た日本像
http://www.geocities.jp/jiangnankejp03/book/jnihonzo/nihonzo_4-2.htm


「大祝は九拝に辨れる。一に稽首という。二に頓首という。三に空首という。四に振動という。五に吉拝という。六に凶拝という。七に奇拝という。八に褒拝という。九に粛拝という。もって右の祭祀を享する。」


特別な行事の時だけに行われる礼法で、中国大陸の一般人には浸透していない。

この事を考えれば、拍手を伝える事が出来るのは徐福だけなのである。

http://www.geocities.jp/jiangnankejp03/book/jnihonzo/nihonzo_4-2.htm

『宋史』(日本伝)には、神代より六十四代目の円融天皇に至るまでの天皇系譜が整然として列挙されている。

それを延々と中国の正史に採録することは、前代未聞の措置であり、宋王朝の複雑な心境が見え隠れする。

宋は960年 – 1279年の中国王朝である。

その太宗は中国の政治の乱れを嘆いており、「島夷」つまり日本の天皇制をうらやましがっている。

さらに、日本に中国の理想の国とされる周の礼法が伝わっているのに驚いたとある。

これは「柏手」の事だと推測できる。


朝鮮大好きな学者

日本の古代史は、当然「大陸」が大きくかかわってくる。

稲作は朝鮮からやってきたとか、朝鮮から大量の人々が日本にやって来たとか言い続けている。

大陸から馬に乗って日本に大集団がやってきて、大和朝廷を作ったという説を唱え、その本が大ベストセラーになった学者の人もいるくらいだ。

騎馬民族征服王朝説

今では、その論法もほころびを生じていて、修正されている。

しかし、秦の国から人がやってきた話には乗ってくれない。

リアルな話はあんまり好きではないのかなと思う。


弥生時代に、大陸からたくさん渡来人がやってきたと言っている学者の人はたくさんいるんだけど、徐福(じょふく)は嫌いらしい。


拍手が邪馬台国の時代からやっていたという事実。

そして、その当時の中国では行っていなかったという事実。

そして「柏手」が宮中の特別な礼法の中の一つだったという事実。

その答えが「徐福」であるのは50パーセント以上である。

そう思うのは「とんでも説」なのだろうか。

正月の初詣に考えた事である。

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コメント

  1. たぬき より:

    時代認識に錯誤があります。
    古代の呉 とは周王朝(王家)が冊封した呉国(王家(姫氏)の親戚。故に姓は姫氏)の事。
    統一王朝の漢(後漢帝国)の末期の混乱~動乱の群雄割拠の後に出来した三国鼎立時代の呉国ではありません。(大まかな地域は同じですが)