浮穴郷の結論を出す 長崎の古代史

古代の長崎に、浮穴の郷という場所があった。

そこには浮穴沫媛(うきあなのあわひめ)という姫がいたという。

そして、景行天皇によって殺されてしまった。

そんな話がある。

しかしその浮穴の郷が長崎県の何処を指すのかが謎となっている。

今回は、この浮穴の郷について調べたい。

 

まず、古代の長崎を彼杵(そのき)郡と言っていた。これは間違いない。この彼杵という名前の由来がある。

具足玉国(そなひだまのくに) 肥前国風土記に、景行(けいこう)天皇が『この国を具足玉国(そないだまのくに)《玉が多くそろっている国》と名付けよ』とおおされたといいます。

なんか適当だと思えるのだが、具足玉国(そないだまのくに)から彼杵というようになったとある。

もっと詳しく言うと、天皇にこの地域の産物である3つの美しい玉を献上した。「白珠(しらたま)」と「石上(いそのかみ)の神の木蓮子玉(いたびだま)」である。

白珠(しらたま)は文字通り白い真珠、木蓮子玉は黒真珠と言われている。何故かと言うと木蓮子とは犬枇杷(イヌビワ)といい、黒い実をつけるからである。

イヌビワ雄花嚢

「石上(いそのかみ)の神の」というのは、武器庫と神宝の格納庫という役割を担っていた神社なので、国宝級の黒真珠という意味だと解釈できる。

具足(ぐそく)とは、日本の甲冑や鎧・兜の別称で具足玉とはそれにつける飾りのことだろう。

また、三具足、五具足は仏具のことをいい、三具足といえば、「花立」「火立」「前香炉」の3つの仏具のセットになる。

まあ、天皇の言葉なので、仏教の道具と言うより、甲冑や鎧・兜だと思う。

しかし、具足はグソクと読み、ソナイとは読まない。

結局、土地の産物と昔からの地名を、強引に当てはめただけだと推測できる。

原文を読んだことはないが、ここは憶測である。

自論だが、佐賀に杵島(きじま)があり、その地区より彼方にあったので、彼杵(そのき)と昔から呼んでいたと思われる。

彼杵郡の範囲

彼杵郡の範囲だが、これも少しあやふやである。

彼杵郡の北側には松浦郡があり、西の方には高来郡がある。

その中間が彼杵郡と言っていたらしい。

肝心の郷だが、4つある事が判っている。

古書に「彼杵郡には大村、彼杵、浮穴、周賀の四郷あり、その中に七つの里あり・・」とある。

大村という地名は現在もあるので問題ない。

彼杵郷だが、現在もある東彼杵の辺りだと推測される。

長崎には西彼杵郡という地域もあるし、彼杵郡の彼杵郷なので、過去一番栄えていた地域だといって間違いはない。

また東彼杵には前方後円墳があり、やはりこの地域が有力である。

東彼杵 ひさご塚古墳

残りは二つ、浮穴と周賀だ。

浮穴郷は、彼杵郡の北にあるという。

そして周賀だが、こんな話が残っている。

景行天皇の後の世代の神功皇后の話しの中に

『肥前国風土記』彼杵郡条 有土蜘蛛 石欝比袁麻呂 丞済其船 因名曰救郷 今謂周賀郷・・

神功皇后が新羅を征伐するためこの郷に来たとき、船を郷の東北の海につないでおいたところ、船をつなぐ杭が、磯になってしまった。

高さ六十メートル、周囲三十メートル余り、岸から一キロ余り離れた、巨大なもので、高く険しく、草木が生えなかった。

さらに、従者の船は風に遭って漂い沈んでしまった。ここに、鬱比表麻呂という名の土蜘蛛がいて、その船を救った。よって救(すくひ)の郷という。

周賀の郷というのは、これが訛ったものだ、という地名由来である。

かなり不思議な話である。だが、まず神功皇后が新羅を征伐するため、この郷に来た時とある。

新羅は朝鮮だ。つまり外海なのだ。

船を(周賀)郷の東北の海につないでおいたという記述から、西海橋近くかなと思う。
(長崎県の大半は海に面しているのだが、東北の海と言うと佐世保方面になり、西海橋近くだとギリギリ東北の海といえる)

流れが早く、従者の船は風に遭って漂い沈んでしまったとなれば、このあたりだと思うのだが、なにせ古代である。

潮の流れもだいぶ変わってしまったとも考えられるので、とりあえず長崎県の外海あたり(西海町)と比定しても問題ないと思う。

また後の文でも、周賀は郡の西の方角だったとあるので間違いないと思う。

こうなれば、だいたい地域が比定できる。

古代の長崎の想像図

新説です。お読みください。

周賀は西海町の巣喰ノ浦 長崎の古代史
https://artworks-inter.net/ebook/?p=6458

私は、古文書に書かれている方角と現在の地名から推測した。

今、はやっている地政学とまでは言わないが、郷という集落地は流通の要の場所や、何かしら産業が興っていた場所だと思う。

なので東彼杵は佐賀からの流通、川棚は松浦、福岡からの流通、大村は諫早、高来からの流通、そして西海町は五島からの流通の拠点と言えるのだ。

古代長崎の予想図 青い線は流通経路と思われる流れ

古代も昔も同じで、長い川があり平地があれば、そこに人が集まり集落が出来るはずである。

比定した場所には、集落があり、栄え具合に差はあるが、古代の事を考えても、現在の地域とそれほど差はないと考える。

現在の地図は埋め立てがかなり進んでいる状態なので、正しい参考とはいかないがこれはしょうがない。

現在の長崎はほとんどが埋立地で平地もなく、ずっと南の野母崎あたりは、中国船などの寄港地になっていたようで、大和の管轄外だったかも知れないし、結局不明でいいと思う。

浮穴郷の比定地

浮穴郷はその名前から、有喜とか七ツ釜(鍾乳洞)等と推理している人がいるが、私は反対である。

浮穴という名前から判断するのなら有喜で、浮穴の文字が洞窟のようだから七ツ釜(鍾乳洞)だというのは、あまりにも曖昧すぎるからだ。

例えば長崎市に平戸小屋という町がある。昔この場所が平戸と呼ばれていたわけではなく、平戸藩のサムライ達が住んでいたからである。

また、東照宮のある日光は、むかし二荒(ふたら)と呼んでいた。しかし荒という字が家康にふさわしくないので、二荒(ふたら)を「にこう」と読み替え、「日光」になったのだ。

こういうことを書くとキリがないのだが、古文書に書かれている方角を軽んじて、文字や名前にこだわると、歴史そのものの解釈が大きく違ってくる。

現在の地名が、昔の地名と違っていたとしても、別に問題はないと思うからだ。(ただ方角などの情報がない場合は別である)

沫媛(あわひめ)は阿波媛(あわひめ)

それでも名前にこだわると言うなら、この説明はどうだろうか。

愛媛県の地名に「浮穴(うけな)郡」がある。

愛媛 浮穴郡

羅漢窟、この岩洞を一書に浮穴郡の起因なりと録せるに因り、近年改めて浮穴村の名を立つ、浮穴は河内国より移せる号なれば、この岩洞に関係なし。
http://www.dai3gen.net/ukena.htm

「浮穴郷」という地名の由来が、愛媛県の「浮穴郡(うけなぐん)」か、河内国(奈良県大和高田市)からの移住者によるものだと考えたほうがいいと思う。

現実にそんな場所は多い。

浮穴沫媛(うきあなのあわひめ)という名前だが、現在の愛媛県の近くには徳島県がある。

徳島県の旧名は阿波国(あわのくに)といい、愛媛県は伊予国(いよのくに)という。

阿波国と伊予国は地続きで、当然交流もある。

浮穴沫媛(うきあなのあわひめ)という名前だが、沫媛(あわひめ)は阿波媛(あわひめ)ではないだろうか。

沫媛という名前は、儚そうで美しい名前だと思うのだが、阿波媛とくれば、阿波の国からお嫁に来たお姫様と想像できる。

阿波の国から伊予国(いよのくに)に嫁いで、長崎に来たお姫様が住んでいた地域

それが浮穴郷だ。

アクロバットみたいな謎解きだが、可能性はゼロではない。

近年の話だが、長崎は漁業の関係で徳島の人間が多いのは事実である。古代四国の国の人々や瀬戸内海の海人が、海運力を使って長崎にやって来たという想像はそれほど的外れではないと思う。

私の先輩に広島の人がいるが、広島には神功皇后伝説があるという。私が長崎にも多いですよというと、驚いていた。

長崎と瀬戸内海の関係は大いに有り得る。

以上は単なる想像なのだが、「浮穴郷」が彼杵郡の北になるとすれば、川棚付近しかない。

川棚は福岡地区と陸路でつながっている。となれば当然文化の交流があったはずである。

浮穴郷の場所が比定されれば、こじつけの様な解説も何処か正解の匂いがしてくるのだ。

 

この比定に反論されるかたも多いと思うが、書かれている文の方角で判断すればこうなる。

邪馬台国の場所探しでもそうだが、基本は書かれている方角を忠実に守ることだと思う。

言葉合わせ、語呂合わせは、古代史で遊ぶ時、一番危険な罠なのである。

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