紀元前二世紀の硯と「ひらがな」の最初
素敵なニュースが飛び込んできた。
北部九州に紀元前の硯製作跡 国内の文字使用開始、300年以上さかのぼる可能性
https://mainichi.jp/articles/20190219/k00/00m/040/236000c弥生時代中期中ごろから後半(紀元前2世紀末~前1世紀)に石製の硯(すずり)を製作していたことを示す遺物が、北部九州の複数の遺跡にあったことが、柳田康雄・国学院大客員教授(考古学)の調査で明らかになった。国内初の事例。
硯は文字を書くために使用したとみられ、文字が書かれた土器から従来は3世紀ごろとされてきた国内での文字使用開始が300~400年さかのぼる可能性を示す貴重な資料となる。
見つかった場所は、福岡県糸島市の潤地頭給(うるうじとうきゅう)遺跡 前2世紀末、中原遺跡(佐賀県唐津市)前2世紀末、東小田峯遺跡(福岡県筑前町)前1世紀の3遺跡である。
これは発見というより再発見であり、既に出土していた石製品を柳田客員教授が再調査してわかったという。
今までの研究員は、文字の使用は漢字導入の時代以降という定説に頭が固定していて硯という発想がなかったと推測する。
これまでも硯は発掘されている。
古墳時代のすずり出土 福岡市の比恵遺跡群 「奴国で文字使用」
https://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/article/394877/
筆やすずりなどの文具は、弥生時代中期(紀元前1世紀前後)以降に、朝鮮半島から西日本に広まったとされる。西日本新聞 2018年02月17日付
と書かれている。
「邪馬台国時代に奴国での文字の使用を示す貴重な発見」と書かれているが、紀元前1世紀前後に硯などが発掘されているのなら当然だと思う。
また朝鮮半島から硯が伝わってきたと書いているが、紀元前1世紀前後といえば、新羅、高句麗、百済、伽耶と国が複数に分かれている時代である。
百済や新羅に独自の文化があったかさえ不明なのだが、漢字文化圏に属していた程度と推測されるので、朝鮮半島で日本と交易している国経由で中国の硯が日本にもたらされている可能性があると書くべきである。
また、中国南部から直接来た可能性も高い。
新聞社や教育委員関係の文章には「朝鮮半島から伝わった」と書かれる事が多いが、歴史に関しては正確に書くように心がけて欲しいのだ。細かなようだけど、ここはハッキリさせときたい。
漢字の発祥は、中国の殷の甲骨などに刻まれた甲骨文字からだと言われているが、様々な経緯を経て、周の時代(紀元前1046年頃-紀元前256年)に外交や商取引で使われるようになったといわれている。
その後、秦の始皇帝(紀元前259年-紀元前210年)が、各地バラバラだった漢字を統一する。
秦といえば、日本に来たかも知れないと言われている徐福の国でもある。
徐福経由で九州に伝わったのかも知れない。
少し引っかかる点がある。
糸島、唐津で再発見された硯は、貿易の為の書簡などに利用されたと思うのだが、東小田峯遺跡(福岡県筑前町)は大宰府より南にある内陸地である。
この地域で貿易が盛んだったとは思われないので、貿易の通信以外の硯の使いみちがあったのだと思う。
古代日本の文字
倭国には文字はなかったとあるが、卑弥呼はシャーマンである。
漢字の発祥の殷でも、漢字のスタートは占いの一種である卜(ぼく)の結果を書き込むために使用されたのが文字(甲骨文字)である。
なので卑弥呼が何らかの記号や文字を使っていた可能性は大である。
本家中国の漢字も最初から完成していて、中国全土に広がってきたわけではない。
漢字統一以前は様々な文字が存在しており、「古文字」を使用していた遺跡もある。
四川省で発見された矛に鋳込まれた「巴蜀文字」というのがある。これらを見れば漢字とは別系統の文字である事が解る。
一括りに中国の漢字文化と言うのは、かなり雑なくくりだと感じる。
弥生・古墳時代の硯は、現在国内で北部九州を中心に山陰、近畿など計25遺跡47点が確認されており、その理由を真摯に追求すべきである。
大和朝廷が日本統一時に、公用文字として完成度の高かった漢字を導入した理由は、中国と同じように、バラバラだった各地域の文字使用を統一したかったと推測できる。
なので、それ以前は日本地域に漢字と別系統の文字があったと考えても突飛ではないと思う。
神代文字
神代文字と書くと何やら怪しさが漂ってくる。
雑誌ムーに載っているような超古代文明が日本にあり、独自の文化を持っていたという偽書による文明論が最初に想像されるからである。
神代文字というネーミングがよくないと思う。神様の時代の文字というのはいかにもSF的なので、単純に古文字でいいのではないだろうか。
歴史の分野では、日本書紀の応神天皇15年(285年)に百済から王仁が「論語」と「千字文」をもたらしたのが公式な漢字の伝来となっている。
だが、漢委奴国王印は、後漢の光武帝が建武中元2年(57年)に奴国からの朝賀使へ(冊封のしるしとして)賜った印がある。西暦57年の奴国の支配階級は、漢字を理解していたと考えたほうが普通である。
倭人たちにとって漢字とは、現在の英語のようだったと推測できる。
これだけ欧米文化に接している日本だが、英語の理解力は日本人の中でかなり格差がある。
なので、中国語と漢字にたいしての理解力も、かなり格差があったはずである。
日本人が、外国語を使うことを不得手にしている理由は、交流が少ないことと、日本語に馴染みすぎていること、言葉の発音の仕方が違うことなどが挙げられている。
なので日本は漢字を本格的に導入したが、中国語は導入していない。表意文字の便利さを取り入れただけである。
日本人はこの漢字を自分たちの言葉になじませようとして、様々な工夫を行っている。
こんなに独自の知恵がある日本人が、これまで全く文字を使っていなかったとは考えられないのだ。
現実に神代文字という存在はある程度認知されている。
2017年に下記の文章を書いた。
ひながなとカタカナ 二つの表意文字の謎
https://artworks-inter.net/ebook/?p=3326
内容を要約すると
神代文字(古文字)は存在していた
神代文字がそのまま「ひらがな」になったとは思わないが、神代文字の書き手である女性(巫女)が、漢字をアレンジしてひらがなが完成した。
そんな内容である。よろしかったらご一読いただければ幸いである。
サンスクリット語(梵語)とひらがな
明石散人氏は「ひらがなは神代文字だった」といい、サンスクリット語とひらがなの深い関係を、強く示唆している。(明石散人と高橋克彦との対談本で日本史鑑定という本のなかで)
五十音図(ごじゅうおんず)とは、日本語の仮名文字(平仮名、片仮名)を母音に基づき縦に五字、子音に基づき横に十字ずつ並べたものである。
これを作ったのは、平安時代後期(1056年)の天台宗の僧、明覚(みょうがく)と言われている。
そしてこの五十音図の内容は、悉曇学(サンスクリットの音韻学)からきている。
この明覚は、修行で使うサンスクリット語(梵語)とひらがなの類似点に気づき、悉曇学を元に五十音図を完成させただけである。
明覚に謎はないが、平安時代にはサンスクリット語(梵語)が重要視されていたという事だけはわかる。
仏教では、紀元の前後を境にして徐々にサンスクリット語が取り入れられ、各国への伝播とともに、サンスクリット語も東アジアの多くの国々へ伝えられた。
日本に入ってきたのは、やはり空海が登場する時期だとされている。
ただ、弥生時代(紀元前10世紀くらいから)に渡来人と呼ばれる人たちが日本にやってきたのなら、その当時のアジア文化も日本に渡ってきたわけである。
当然、仏教やサンスクリット語も来たと思う。
ただ、サンスクリット語を理解するとまではいかないので、文字自体を神聖なものと感じたと思われる。
正式な漢字導入は聖徳太子時代で、仏教伝来は6世紀半ばと教科書には書かれているが、実際に日本各地に登場するのは弥生時代からであろう。
いつも思うことがある。
学者の人たちや教科書では、縄文後期には渡来人が大量にやって来て、日本の元を作ったと言っている。
稲作も朝鮮半島から伝わってきたと、まだ言っている人達も多い。
しかし、そんな学者たちは、邪馬臺国の時代では倭人は箸も使っていなく、手づかみで物を食べていたとも言っている。
よーく考えてほしい。
中国大陸で、長江や黄河文明が栄えていたのは事実である。
長江文明(ちょうこう)は紀元前14000年ごろから紀元前1000年頃までが範囲に入る。後の楚・呉・越などの祖になっていると考えられているのだ。
日本の縄文時代の終わり頃に、その地域の人間が、日本に渡来人として大量に来たと言っている。
その渡来人たちは、稲作しか伝えなかったのだろうか。食文化や宗教は全く伝えなかったのだろうか。
そんなアンポンタンばかりが日本にやってきたと本当に信じているのだろうか。
ここに大きな矛盾があるのに気づかないのだろうか。
人がやってくれば、その地域の文化もやってくるのだ。
もちろん正式な伝来は記録どおりだろうが、弥生時代に中国大陸から渡来人が来たと言い張るのなら、その文化も一緒に来たはずである。
なので紀元前後に仏教やサンスクリット語が日本に流れ込んだとしても、なんの不思議もないのだ。
もし、いやそんなわけはないと言うのなら、古代、日本に渡来人は一人も来なかったと言ってほしい。
平仮名の誕生
では、いつごろ平仮名が作られたかである。
諸説あるが、平安時代に女性たちによって創作されたとされているが、もっと歴史は古い。
ひらがなが作られた理由は、日本語を表記するために漢字の音を借用した事から始まる。
この漢字の音だけを使って書かれたのが万葉集である。
万葉集の成立は759年(天平宝字3年)以後とみられている。ただこれは編集された年で、歌自体は昔からあったわけである。
万葉集は全文が漢字で書かれており、漢文の体裁をなしている。
しかし、歌は、日本語の語順で書かれている。歌は、表意的に漢字で表したもの、表音的に漢字で表したもの、表意と表音とを併せたもの、文字を使っていないものなどがあり多種多様である。
編纂された頃には、まだ仮名文字は作られていなかったので、万葉仮名とよばれる独特の表記法を用いた。
つまり、漢字の意味とは関係なく、漢字の音訓だけを借用して日本語を表記しようとしたのである。
そして「万葉集」は全巻で20巻であるが、その巻頭の歌が雄略天皇の歌で始まっている。
篭毛與 美篭母乳 布久思毛與 美夫君志持 此岳尓 菜採須兒 家告閑 名告紗根 虚見津 山跡乃國者 押奈戸手 吾許曽居 師吉名倍手 吾己曽座 我許背齒 告目 家呼毛名雄母
これがそうなのだが、全く読めない。
(現代語訳)美しい籠やヘラを持って、この丘で菜をお摘みのお嬢さん、君はどこの家のお嬢さんなのか教えてくれないか。大和の全てを私が治めているのだ。私こそ教えよう、家柄も名も。
可愛い歌である。
21代雄略天皇は西暦457年から即位したと言われている。
万葉集の成立は759年だ。
雄略天皇の歌が本当なら、300年も前に読まれた歌を掲載しているという事になる。
300年も前の歌を誰が覚えていたのだろうか。
単純に考えて、西暦457年より以前に、すでに日本には文字があったと考えてもいいはずである。
実は、5世紀の稲荷山古墳から発見された金錯銘鉄剣では、漢字を使った表記が確認されている。
これらも漢字の音を借りた万葉仮名の一種とされるので、漢字の音を借りて固有語を表記する方法は5世紀には確立していた事になる。
今回の硯の発見のことを考えれば、時代は一気に遡れるのではないかと思う。
もう一つ疑問がある。
平仮名のもとになったと言われている万葉仮名だが、万葉仮名の字体をその字源によって分類すると記紀・万葉を通じてその数は973に達する。
たとえば、「し」というひらがなに対して、万葉仮名は、子 之 芝 水 四 司 詞 斯 志 思 信 偲 寺 侍 時 歌 詩 師 紫 新 旨 指 次 此 死 事 准 磯 為 これだけある。
これらの中から48文字を抜き出して、平仮名にしたという事だが、誰が選別をしたなどの記録はない。
書籍などでは、「自然とそうなった」的な事を書いているが、この話を聞くと進化論の事を思い出す。
話が飛ぶようだが、ダーウィンの進化論では、猿から人間になったと解釈されていた。
完全な間違いではないが、自然と変化した的なことだった。
「キリンの首が長いのは、木の葉を食べるために自然と長くなりました」という、あれである。
現実には、平仮名と各種変体仮名という二つの流れがあり、うなぎとか天婦羅などの変体仮名は現在まで残っている。
普通考えても、自然にみんなが勝手に漢字を崩していき、平仮名みたいにしたら、際限なく変体仮名が増えて行くことにならないだろうか。
生物の進化は、ダーウィンの進化論だけでは説明できない。
現代で判っているのは、突然変異による新種の登場である。
現在の平仮名が出来たのは、自然の淘汰ではなく、突然変異で誕生したと考えるほうが、正しい平仮名論ではないだろうか。
つまり「平仮名の見本」が存在していたという考えが正しいと思うのだ。
その見本というのが、神代文字である。
平仮名は48文字と少ない。
48文字あれば、大体のものが書けるのである。
この神代文字を参考にして、平仮名は完成されたと考えたほうが、変な進化論より論理的である。
平仮名になった漢字たちがある。
以(い)加(か)己(こ)などはわかるが、美(み)留(る)遠(を)波(は)などは、かなり無理があると思う。
やはり、見本があったはずである。
神名(かんな)
楷書で書かれた漢字を真名といい、平仮名は、最初「かりな」と呼ばれていて、それが「かんな」になり「かな」となったとある。
普通の変化だと思ったが、仮名は「神名(かむな)」に由来しているという話がある。
神名(かんな)という字は、神名帳(じんみょうちょう)という物と同じ字を書く。
神名帳とは、神社や神の名を記した帳簿、又は社寺の祭祀において祀る神の名を列挙したものをいう。延喜式神名帳などがある。
ここで、私の脳は大転換をしてしまう。
つまり、平仮名は神の名前を書くための文字だったのではないかと思うのである。
神の名前を書く文字とは、神代文字だったのである。
神代文字には、ハングルそっくりや抽象的な文字もあるが、一番ポピュラーとされているのは、阿比留草文字である。
阿比留草文字はお札等によく使われる、比較的メジャーな神代文字で、伊勢神宮に奉納された奉納文の中では、最も多く用いられている。
阿比留家の文書に阿比留文字や対馬文字と呼ばれるハングル文字のような文字は、今日の研究では起源の異なる文字であるとされている。
神代文字研究家の吾郷清彦は「釈日本紀」に「此書(文字)今図書寮ニアリ。其ノ字体頗ル梵字二似タリ」と書かれている。
サンスクリット語(梵字)に阿比留草文字は似ているという。
そして普通に見て阿比留草文字は、平仮名とよく似ていると思う。
平仮名の一番最初は「あ」である。
サンスクリット語(梵字)も最初が「あ」で、胎蔵界・大日如来をさす。
これから想像しても、平仮名は神名(かんな)にならないだろうか。
紀元前、梵語が仏教に取り込まれてアジアに広まっていく。
その梵語が日本にも伝わってくる。
古代神道は仏教からの影響を受け、その梵語を手本にして、阿比留草文字(神代文字)が作られる。
様々な祭祀を行う巫女たちがその文字を操るようになる。
巫女たちの一部が、漢字の万葉仮名を、阿比留草文字の書体を手本にして、平仮名(神名)を作る。
それが、宮中の女性に広がり平仮名と呼ばれるようになった。
これが私の推理である。
さらにもう一つ、仮名(神名)について発見したことがある。
それは、言霊信仰である。
言霊信仰
言語そのものに霊力が宿っているという信仰。ある言葉を口に出すとその内容が実現するという,一種の宗教的信仰ともいえるもので,祝詞 (のりと) ,忌言葉もその現れである。
なぜ言霊信仰が生まれたかというと、下記のような文がある。
万葉時代に言霊信仰が生まれたのは、中国の文字文化(漢字)に触れるようになり、大和言葉を自覚し、精神的基盤が求められたこととも無縁ではないという指摘がある。ウィキペディア
この文は、ハッキリ言って何を言いたいのかよくわからない。
言語そのものに霊力が宿っているという信仰とは、ずばり仮名(神名)ではないだろうか。
漢字は中国からの輸入品である。便利で使えそうなので、導入されたのである。
しかし、梵語などは宗教の言葉として認知されている。
この梵語をベースにした平仮名は、まさに言霊なのである。
話し言葉をそのまま表す平仮名は、呪文と同じ効果があると信じられて、言霊信仰が日本に住み着いたのだ。
最初の話に戻る。
3世紀ごろとされてきた国内での文字使用開始が300~400年さかのぼる可能性が出てきたとある。
柳田客員教授は「倭人(わじん)(当時の日本人)が使っていたとしか言いようがない。
硯は文字の需要があったから作った。地元産の石を用いた可能性がある。中国製を模倣しつつ独自の形状をしており、国産化する際にモデルがあったのでは」と話している。
その通りだと思う。
もちろん中国の漢字も書いただろう。
しかしそれ以外にも、平仮名の元になった神代文字も書いたと思われる。
ただ、その時代、倭国は統一されていなかったので、いろんな地域の方言があり、神代文字も多様を極めていたのだ。
日本の古代遺跡でも、結構、文字らしきモノが発見されている。
出土品について近年の調査で古墳などから象形文字に似た記号や標識が数多く見つかっており、そこから文字が生まれた可能性は十分にある。
神代文字、いわゆる「古代文字」が彫られた物は数多く見つかっており、地域的にも琉球や北海道、朝鮮半島といった広範囲において見つかっており、全て偽造だとは考えにくい。ウィキペディア
そして、この古代の文字たちが一般的に広まらなかったのは、言霊信仰ののせいである。
神の名を書く特殊な文字である。
古日本には、人の名前を書かないし、本名を呼ばない伝統がある。
なのであだ名で呼んだりする。
そんな人達の名前を書く文字である。広がらないのが当たり前だと思う。
今回の硯の発見は素晴らしいと思う。
だが、この事を深読みすれば、文字にしても、その他の発掘物にしても、発掘していても、それがなんだか解らなかったり、これまでの歴史の定説にしばられていて、正しい時代が算出できなかったりしているのではないかと思う。
確かに時代測定は難しいだろうが、学者の人たちの先入観で、とても大切なものが、今までの発掘物の中に埋もれているかも知れないという懸念が残る。
今後、科学が発達して正しい情報が公開されるといいのだがと強く思う。
この発掘したものの分析は、先入観のないAI(人工知能)に任せたらどうだろうか。
AI(人工知能)が分析すれば、すごい発見があるような気がする。
頑張れAI(人工知能)。期待しているよ。
日本の神を祀る派閥と仏教も信仰する派閥とにわかれて殺しあいがありましたがあれも虚偽なのですか
また日本に独自の鬼道などがあるしこれは道教との関係性も考えられる
更にはこれが大衆に受けいれられているのでは