金比羅山 謎の天孫降臨伝説を追え(8)
瓊杵田津(にきたつ)と呼ばれた長崎。
瓊という字はわかったが、杵という字がある。
これは長崎県の古名である彼杵(ソノキ)からとったのだろう。
彼杵の郡名の由来は諸説あるが、「肥前国風土記」では景行天皇が土蜘蛛と称された現地の豪族から得た玉を賞してこの地を「具足玉国(そないたまのくに)」と命名したとの故事を記し、転訛して彼杵と称するようになったとしている。「具足玉国(そないたまのくに)」で彼杵(そのき)である。
彼杵郡。長崎の人間なら、馴染みのある地名である。長崎では、西彼杵郡、東彼杵郡と別れている。
「瓊」の読み方は、音読みでケイ、訓読みでは「たま」と「に」である。
その意味は「玉。特に、赤く美しい玉。」を指す。
この文字の意味を知った時、長崎に関係する重要な人物がピンときた。
それは「丹治氏(丹治比氏、多治比氏とも書く)」である。
長崎の丹治氏
長崎の地名の元になった長崎氏は、昔から長崎に住んでいた「丹治氏」一族だったという記録である。
この話しは、以前ブログに書いた。
長崎地方の在地領主で、遅くとも鎌倉初期には長崎浦の開発領主となって同地に住みついたところから、地名によって長崎氏を称したものと考えられる。
長崎氏は丹治比氏の一族ともいわれ、永埼とも書かれ、鎌倉・南北朝期以降に長崎に改めたという。
丹生とは、上記“丹”の生産やその産地を“丹生”といい、ひいてはこの生産に携わる者たちをも丹生と言ったと考えられる。
この仕事を生業(なりわい)とした者達がいわゆる「丹生族」であり、これが丹生部であろう。
土師部、壬生部、丹治比部、埴生部は丹生部民とも関連する部族だったはずである
広い意味では、水銀はもちろん、金・銀・銅・鉄などの採鉱や精錬、土器製作や土木工事をも含む、凡そ土に関わるすべてに丹生部は係わっていたと思われる。
つまり丹の文字が付いた名字は、鉱山関係の技術があったのである。
長崎の丹治氏も鉱山関係で長崎に住み着いていて繁栄していたのである。
また琴海地域で翡翠が取れたという記述もある。
日本のひすいの産地
宝石になるようなきれいなものが多産するのは糸魚川ですが、長崎市 琴海からは灰緑色のひすいを産し、宝石にはならないまでも、なかなかきれいなものがあります。
玉(ぎょく・たま)とは宝石の事で主にヒスイを指す。
こうなってくると、瓊杵田津(にきたつ)、「玉杵名邑(たまきなむら)」というのも納得がいく。
長崎の主、丹治一族は、鉱山関係者である。
そして長崎市の近くの琴海では翡翠が撮れていたのだ。
金比羅山の別名、瓊杵山(にぎやま)のと瓊は、丹治一族と翡翠のことを指していたのだ。
唐津の宇木汲田遺跡の甕棺墓から長崎ヒスイの縄文勾玉が出てるそうです。弥生時代の墓から縄文系の勾玉がいくつも出るのは「大きなナゾ」だと本に書いてありました。単に伝世品をおさめただけで「大きなナゾ」はオーバーだろうと私は思いました。この甕棺に葬られた人と長崎県側の人とが知り合いだったとしても不思議はないと思うんですよ。長崎ヒスイだからといって持っていた人が古代の長崎県側の人だとは限りませんが。学者さんたちの頭の中では「肥前」に長崎県の本土側は含まれないのです。「まぼろしの邪馬台国」は読まれたとどこかで書いておられましたね。まさに宮崎先生がおっしゃるところの「鉄のカーテン」なんですよ。
長崎は色んな意味で、古代史の記述が少ないと思います。
意図的に少ないのでは、という思いが強くなっています。
「鉄のカーテン」という意味も理解できますね。