最初から神仏習合だった
日本には宗教の自由があるので、様々な宗教が存在している。
日本に根付いているといえば、神道と仏教だろう。
世界で一番信者が多い宗教はキリスト教だが、日本のキリスト教信者は人口は1%だと言われている。
なぜ世界最強のキリスト教が日本に根付かなかったのは、キリスト教が一神教だからという解説が多いが、日本に浸透している仏教も、元をたどればお釈迦様一人なので一神教である。
ただ仏教の場合、日本に伝わり日本独自に解釈された仏教は、裾野が広く一神教でもあるし多神教でもあると言える。
仏教と神道の最初
仏教は最初、蕃神(ばんしん)と呼ばれ「隣の国の神」と理解されていた。つまり仏教は日本に伝わった時点から、日本の神と同等に扱われていたのである。
仏教伝来が6世紀に百済よりもたらされたと日本書紀には書かれているが、それは公式に大和朝廷が仏教を認めたという事で、仏教自体は早くから日本に伝わっていた。
そう推測できるのは中国の仏教伝来に起因する。
アジアの中国地域への仏教の伝来は、1世紀頃と推定されている。
仏教は死後の世界での成仏を主眼としたもので、経済活動が活発な時期では、ネガティブな考えとされていて、注目さえ浴びていなかった。
だがそんな仏教も、紀元3世紀頃の戦乱の時代に中国に定着したとされる。
戦乱の時期は人が良く死ぬし、未来が見えにくい。現世のつらい時代に死後の幸せを求めるのは人の常だろう。
この時代の倭国は邪馬台国の時代である。
邪馬台国の卑弥呼は、魏から親魏倭王の仮の金印と銅鏡100枚を与えられたと記述がある。
とすれば中国大陸で定着している仏教を、卑弥呼が知らないわけがないのである。
これが仏教が古代より日本で知られていた理由である。
それに対抗する神道の歴史は不明な点が多い。
神道を自然信仰ととらえれば、縄文時代からの信仰ともいえるし、『日本書紀』と『古事記』の歴史書の中で初めて「神道」という言葉が使われていることを思えば、古事記の書かれた時代が神道の始まりだともいえる。
まあ初期の神道はアミニズムと祖先崇拝だったと考えたほうが自然である。
そして社や鳥居、しめ縄などの様式がいつから行われたかは不明である。
ただ漠然とした信仰が一つの塊となるには、比べるものが必要だ。
一人っ子に兄弟が生まれた時、その時点から兄と弟という関係になり、性格や役割も際立ってくることと同じで、仏教という理論武装した宗教が日本に伝わった時点から、自然信仰の神道は、仏教との違いを認識して、神道の様式を作り上げたと考えられている。
つまり、仏教も神道も同時に古代日本に現れたといってもいいのではないかと思う。
この辺りは一般の学説とはかなり違うが、日本の信仰を考えれば自然な解釈だと言えるのではないだろうか。
日本に形式的な神道が登場したのは、仏教が日本に伝わった時なので、かなり古代、つまり邪馬台国の時代にはすでに存在していたと考えられる。
日本人の不思議
様々な行事に、神道や仏教、結婚式とクリスマスはキリスト教なのに、ほとんどの人が自分は無宗教と答える。
それは、現代の人々が「宗教」は非科学的で、神仏を信じきり「束縛の多い宗教」に入ることをいいと思っていないからである。
宗教という言葉には排他的な要素が強い。
だから「宗教」から怪しさと危うさを感じさせらて、凶悪なオーム真理教や壺や印鑑を売りつける新興宗教団体が、日本人の思う具体的な「宗教」となってしまった。
日本人は自由さをより求める。やはり「宗教」という束縛感が苦手なのだろう。
なので日本人の知識人の多くが「自分は無宗教」と考えているのだ。
ただ古来より伝わっている慣習は大切にする。
元日に神社に初もうですることも、クリスマスで騒ぐのも、葬式を仏式で行うのも、宗教ではなく慣習による行事なのだ
まずこれが日本人の宗教観である。
信じる事と信じ切る事とは違う
神社でお宮参りをする事と、キリスト式で結婚式を挙げる事は同列で、行事様式の種類としか考えていないのだ。
たとえば食事をする場合、和食にするか中華にするかは、その人の気分次第である。
それと同じように、無宗教だという思いが、複数の宗教の儀式を選択させているし、そこには罪悪感など皆無である。
この事実を考えれば、仏教も神道も、キリスト教も、日本人にとって同列である事がよくわかる。
この横並びの宗教の考えを受けいられる思考があるはずである。
一つ思いつくのが、「アニミズム」という概念だ。
この場合のアニミズムは自然という言葉と置き換えられる。
海や山、空、太陽、月など、日本列島を作り、私たちの命をはぐくむものすべての存在に精霊を感じているのだ。
これらには教義もなければ戒律もない。
しかし日本人は、この「すべて尊いものは自然の中に存在する」という考えこそが重要なファクターなのである。
元来、アニミズムは原始宗教として卑下されることが多い。
西洋ではアニミズムは未開社会のものであると考えられ、キリスト教を最新の世界観として、アジアにも押し付けてきた経緯がある。
だが日本では、結局受けいられなかったという事実がある。
という事はアニミズムが日本人の心であり、それが茶道のわび、さびに通じているのである。
いただきます
日本人は食事の際に手を合わせて「いただきます」と言う。
これは様々に解釈がある。基本は食事に携わってくれた方々への感謝であり、食材への感謝であるとされている。
食材への感謝とは、犠牲になった食物への感謝であり、野菜や魚、肉などといった他の生き物の命を犠牲にすることで、自分の命が成り立っている事を再認識して感謝するのである。
誰に感謝をするかと言えば、具体的な神や仏ではない。
その命に対してである。
「命はすべて等価値で尊い」といった思いは日本人独特な感性だと思う。
いい例がある。
日本人は虫にまで愛情を示す。
例えばスズムシが鳴く声を感情を持って聞く。小川のせせらぎや波、雨音も感情に触れる音として存在する。
西洋人にはそれらはすべて雑音である。その理由は西洋人は虫の音を雑音と同様に音楽脳で処理するのに対し、日本人は言語脳で受けとめるという。
これは全ての自然物を大きな存在(既存宗教の神より上位な存在)が作ったものとして、恐れ、敬い、大切にして来たからである。
その考えが、脳の生理的な反応にまで影響を与えたのである。
さらに「いただきます」の中には、謙虚な心が読み取られる。
地球上の生き物は、すべて他の生物を食って生存している。
宇宙から見れば、地球というのは食らいあって生き続ける地獄のような星なのである。
その中で人間は生き続けていく為に他者の命を犠牲にしている。
そんな人間の哀しさが、日本人の「謙虚の心」を生んでいるのではないだろうか。
その発露が「いただきます」の中に込められているのだ。
この言葉が古代より使っていたのかは不明で、挨拶として広く慣習化されたのは恐らく昭和時代からとも言われている。
ただ、この感覚は古代日本人がずっと持ち続けていた感覚だと思う。
人間が対象である既存宗教
地球上の宗教の中に「命はすべて尊くて平等」という概念はない。
命を尊ぶというのは、ほとんどが人間が対象である。
むやみな殺生を良しとしないというのは、確かにいろんな宗教に存在しているのだが、ある意味道徳的規範といったところだろう。
キリスト信者が言うのは牛や鶏は、人間に食べられるために神が作ったという。
仏教では、鳥・獣・虫・魚などの全ての人間以外の動物を畜生と呼び、畜生の世界を指す畜生道は三悪道(三悪趣)の1つと教えている。
どこか違うのである。
一寸の虫にも五分の魂と言ったりもする。
これは弱者を侮ることへの戒めであり、また、日本人の判官びいきといった、弱者への応援する心の存在が強いことを忘れてはいけない。
これは理論ではなく感情なのである。
その日本人の感情はいつの時代からあったのだろうか。
卑弥呼の鬼道
日本の宗教に関しての記述は、魏志倭人伝の邪馬台国の卑弥呼についてが最古だろう。
「乃共立一女子為王 名曰卑彌呼 事鬼道 能惑衆」
口語訳(名を卑弥呼といい、女王は鬼道を使い、能く人心を掌握し)
中国の魏という国から来た役人は、倭国邪馬台国の信仰を「鬼道」と感じたのだ。
様々な説
『魏志』張魯伝、『蜀志』劉焉伝に五斗米道の張魯と「鬼道」についての記述があり、卑弥呼の鬼道も道教と関係があるとする説(重松明久『邪馬台国の研究』)。
卑弥呼の鬼道は後漢時代の初期道教と関係があるとする説(黒岩重吾『鬼道の女王 卑弥呼』)。
道教説を否定し、鬼道は道教ではなく「邪術」であるとする説(謝銘仁『邪馬台国 中国人はこう読む』 )。
神道であるとする説。神道の起源はとても古く、日本の風土や日本人の生活習慣に基づき、自然に生じた神観念であることから、縄文時代を起点に弥生時代から古墳時代にかけてその原型が形成されたと考えられている。大島宏之 『この一冊で「宗教」がわかる!』
引用ウィキペディア
なるほどと思う説もあるが、「鬼道」という言葉を考えた時、魏の役人が中華の人間だったという事を考慮に入れる必要がある。
中華思想では、他国はすべて野蛮だという考えが根付いていて、その為に周りの国を卑しい言葉を使って呼ぶ。
例えば「倭国」であり、「卑弥呼」である。
となれば「鬼道」も卑しい言葉を意図的に使った可能性が高い。
中国での鬼は霊魂、妖怪である。
卑弥呼の信仰を「鬼道」と呼んだのは、悪意の文字を使っただけだという可能性がある。
現在の解釈では、卑弥呼は卑しい存在ではなく、日巫女の事だとされている。
とすれば「鬼道」も、「気道」だったかもしれない。
気は中国思想や道教や漢方医学などの用語の一つで、平たく言えば「エネルギー」である。
鬼の字は「死者」で、気の字は「エネルギー」だと解釈すれば、鬼道とは「祖先の持つエネルギーを敬う」信仰だったとも想像できるのである。
鬼道の内容
鬼道の内容は不明だが、「事鬼道 能惑衆」とあるので、人々は鬼道という信仰の下で暮らしていたことになる。
それでは、その鬼道という信仰で、邪馬台国の人間はどうだったのかという事が書かれているので参考にしたい。
■その風俗は淫らではない。
■人が死ぬと、棺はあるが槨のない土で封じた塚を作る。死してから10日あまりもがり(喪)し、その間は肉を食さない。喪主は哭泣し、他の人々は飲酒して歌舞する。埋葬が終わると家の者は水に入り体を清める、これは練沐の如し。
■集会での振る舞いには、父子・男女の区別がない。
■人々は酒が好きである。敬意を示す作法は、拍手を打って、うずくまり、拝む。人は長命であり、百歳や九十、八十歳の者もいる。
■女は慎み深く嫉妬しない。盗みはなく、争論も少ない。
■宗族には尊卑の序列があり、上のもののいいつけはよく守られる。
■特別なことをするときは骨を焼き、割れ目を見て吉凶を占う卜(ぼく)を行う。まず占うところを告げ、その解釈は令亀の法のように、火で焼けて出来る割れ目を見て、兆しを占う。
これらが鬼道という信仰で、邪馬台国の人間が暮らしているさまである。
これらの事から鬼道を推測してみる。
「集会での振る舞いには、父子・男女の区別がない」とは自由で平等だという事である。
古代の宗教で「父子・男女の区別がない」という教えがあっただろうか。
「女は慎み深く嫉妬しない。盗みはなく、争論も少ない。」に関して言えば、個人主義ではなく、規律がしっかりと存在していて、謙虚さが浸透していたのだろう。
「人は長命であり、百歳や九十、八十歳の者もいる。」については、現代の医者でもストレスの少ない社会だというだろう。
こんな社会を作った信仰は邪教ではありえない。
「埋葬が終わると家の者は水に入り体を清める」だと神道のにおいもするし、「骨を焼き、割れ目を見て吉凶を占う卜(ぼく)を行う」では道教的な部分もある。
総体的に見れば、秩序があり、自由平等が確立し、いいことづくめの教えだと思える。
卑弥呼の外交手腕
鬼道の記述は『三国志』魏書東夷伝倭人条にある。その時代の魏の使者が日本にやってきた。
なぜやってきたかというと卑弥呼が魏に使いを送ったからだ。
三国の中でも魏は、朝鮮半島の楽浪郡(らくろうぐん)や帯方郡(たいほうぐん)を押さえているからだ。
卑弥呼は朝鮮半島に存在している中国の脅威を感じ取っていた。なので貢物を送って有効な関係を築きたかったのだ。
魏のほうも、邪馬台国が敵国呉と親密になっては困ると思い、『親魏倭王』の称号を送っている。
邪馬台国の卑弥呼は外交にも気を使っている。魏志倭人伝の記述によれば、朝鮮半島の国々とも使者を交換していたらしい。
つまり卑弥呼は狂信的なシャーマンではなく、有能な政治家という事がよくわかる。
道教
さて中国に根付いている道教だが、宗教ではなく古代の医学と言っていい側面が多い。
道教の説明は複雑になるがキーワードを上げると概略が見えてくる。
気、漢方薬、仙人、老子、荘子、道家、無為自然
平べったく言えば現世利益の民間信仰で、老子は仏陀と同じくらいの時代の人間で、古くから深く中国に根付いていたのである。
日本に来た魏の使いは仏教と道教を知っている。
だが、卑弥呼の信仰はこの二つに当てはまらないものだったのだろう。
だから鬼道と名付けた。
魏の使者が、道教に関してどれだけ深い知識があるかは不明だが、鬼が霊魂だという事くらいは認識していると思う。
元来中国人は、新しい事を表現する言葉を作るのが不得手である。
明治維新の際、日本が新しい概念を次々に漢字にした。そして中国はその新しい漢字を大量に輸入した経緯がある。
魏の使者が、卑弥呼の祈りを、新しい宗教ではなく「鬼道」といったのは、死者を祀る信仰だからである。
ただ短期間しかいなかった魏の使者が、倭人の宗教観を深く理解できたとは思えない。
なので、祖先もしくは死者の魂を祀っている事だけを知り、悪字を使い鬼道と表現したのだろう。
太陽信仰
卑弥呼の名前は日の巫女である。
太陽信仰がベースになっていることを忘れてはいけない。
となれば、自然信仰である。
そしてシャーマンならば自然の霊、つまり精霊を味方につける事である。
そして、魏の使者が名付けた鬼道が加わる。
つまり鬼道が自然崇拝と祖先崇拝の複合的宗教だったことが推測されるのである。
対馬の神社
最近対馬の古い神社を訪れた時に考えたことがある。。
たとえば海神(わだつみ)神社は4世紀の創建と伝えられるが定かではないが、古いことは古い。
実際に行ってみて強く感じたのは、神社内は、お寺風の建物と神社風の建物が混在していた。
さらに、神社の敷地内に阿弥陀堂があったりもする。
神道の古い神社だと思って参拝したのだが、ほとんどが神仏が混在していたのだ。
その時に思ったのは、古代より神仏混合だったという思いである。。
仏教公伝(ぶっきょうこうでん)はは6世紀半とされているが、対馬の神社を見れば、日本に仏教が伝わってきたのはもっと早かったのだろう。
229年には三国は興き、中国内に3人の皇帝が同時に立った。三国のうちの呉が滅び、そして西晋による中国統一(280年)が実現した。
日本に呉の文化が流れ込んだのは、この時期と思われる。
対馬は朝鮮半島に近い。なので仏教が日本に流れ込んだのは対馬が最初だと推測される。
つまり古代対馬の信仰に仏教の影響があってもおかしくはないのである。
天道信仰
対馬には天道信仰がある。
対馬の天道信仰は独特で、太陽の光が女性の陰部に差し込んで孕み、母神と子神として祀るようになったという。
この信仰は、大和朝廷の母神(神功皇后)と子神(応神天皇)を祀る八幡信仰となった。
また、太陽を祀る天道信仰は、天照大神と天孫降臨に結びついたという。
天道信仰の遺跡は、鳥居もなく石積みのピラミッドが、原始林の中に鎮座しているだけの姿である。
それを見て、これが日本の信仰の最初だったと強く感じたのだ。
神道は自然信仰と祖先崇拝で成り立っている。
なので天道信仰が神道と言えなくもない。
しかし神道には個人の祖先の霊魂を祀るという概念がない。
神道は日本の神々が信仰の対象で、個人的な魂は祈りの対象ではなく、さらに死は穢れであり、触れることはないのである。
つまり仏教でもなく神道でもない宗教が、倭国に元来あったと推測されるのだ。
いや仏教であり神道でもある宗教がベースに存在したといったほうがいいだろう。
その大本の教えとは鬼道ではないだろうか。
卑弥呼の時代からあった鬼道がベースになって日本教は誕生していたのだが、仏教の死者救済の概念が、鬼道に化学変化を起こさせた。
つまり鬼道が二つに分裂したのだ。
そして神道(自然)と仏教(魂)の形をとったと言えるのではないだろうか。
自分たちの住んでいる自然環境から、まんべんなく食物を得ている倭人たちは、自然環境のすべてが、自分たちを生かしてくれている事を熟知していた。
これにより、自然の存在に敬意を払う事は基本的な信仰となったのだ。
単なる妄信的な恐れだけではなく、食べ物を供給してくれる存在として自然崇拝が誕生したのである。
まとめ
古代日本では食糧を供給してくれる自然そのものに感謝の念があり、敬うことが信仰になる。
さらに、邪馬台国の時代でも年長者を敬う秩序があり、それが祖先崇拝につながっていく。
これらが混然として、縄文、弥生と続いていたのだろう。
そんな時期、中国から使者が来て、その当時の王国邪馬台国を訪れ、卑弥呼の鬼道を倭人の信仰だと感じて記録した。
道教や仏教にない感性を「鬼道」だと表現したのだ。
しかしそれは特別なものではなく、道教や仏教の概念の一部を取り込んだ、総合的な信仰だったのだ。
そこには、自由平等や謙遜の念といった倭人独特の感性が入り込んだ「鬼道」だったのである。
鬼道と呼ばれる倭人の原宗教は時代が経つにつれ外来宗教と接触する。
そして神道と仏教に分離していく。しかし形は分かれていっても本来一つの宗教だったのだ。
なのでいきなり神仏習合の道を選択したのである。
神仏習合は仏教に神道が混じったのでなく、その逆でもない。
最初から神仏習合だったのだ。
それが結論である。
既存宗教の非合理性の中から、合理的な部分を抽出して、生活の中に儀式だけを取り込んだ日本人。
既存宗教の原理主義から一線を引きながら、宗教ではなく信仰のみを伝え続けた日本人である。
鬼道から神仏習合。そして個別の神道、仏教に枝葉を伸ばしていったのである。
この説は世間の考えと真逆かもしれない。
だが、それでも神仏習合が日本の信仰の原型だったのだと思う。
だからこそ、明治維新までの2千年近く続いたのである。
そして今も神仏習合は、私たちの生活の中で息づいているのである。
「いただきます」「ごちそう様」「ありがとう」
これが日本の宗教の原型であり、これからも続いていくだろう。
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