金比羅山 謎の天孫降臨伝説を追え(12) 安曇族

金比羅山の天孫降臨伝説だが、古事記の記述を正確になぞってもあんまり意味はなさそうだ。

しかし、古事記が只の小説ではなく、大和国が出来上がっていった経緯についての各地の伝説の寄せ集めである。

だからこそ、天孫降臨複数説の可能性が高まる。

長崎の金比羅山天孫降臨伝説も、火の国(肥の国)が出来た話の一つだろう。

長崎と雲仙は近くではないが、海でつながっているので、当然交流はある。

天孫降臨の伝説を考えれば、大和勢は先ずは長崎にやってきた。

そこで天孫降臨伝説が誕生したと考える。

長崎の近くの大村の彼杵の荘には、前方後円墳がある。古代に大和の影響があり、豪族が大和になびいたという証拠である。

長崎県東彼杵郡東彼杵町にあるひさご塚古墳

そして島原に移動していったとおもう。

島原の有明海の海岸沿いに、これまた前方後円墳がある。

長崎県内最古級の前方後円墳、守山大塚(もりやまおおつか)古墳

これを考えれば、大和勢が島原まで移動していった動かない証拠だと思う。

島原の雲仙は阿蘇火山帯に含まれている。火の国という括りは、雲仙と阿蘇山を有する地域とすれば正解である。

そして、火の国の雲仙と阿蘇山の間に有明海がある。

おなじ火の国ならば、船による行き交いは多かったはずである。

有明海は、干潮の差が大きい特殊な海域である。海産物の恵みも多く、干潟のムツゴロウやのり、貝類は特産でもある。

この地域に、特別水軍の記録はない。

なぜなら、干潟なので、大きな船は接岸不可能だし、多数の小舟が攻めてきても、時間が経てば潮が満ちてきて、干潟の中に取り残されてしまうからである。

なので、この干潮の差が大きい干潟は、天然の要塞だったのである。

ここでホームページの検索で引っかかったページを見つけた。(現在リンクなし)

古代九州の有明海沿岸、筑後水沼郡・山門郡周辺一帯は安曇族の支配下にあったという説がある。  

郷土・筑後地方の謎に迫る(4)古代中国海人の「日月星辰の幡」の伝承

このページによると、現在の福岡県みやま市瀬高町太神地区の神社やお宮には今なお伝統的祭事が伝えられている。

そしてそ地区の祭事には「日月星辰(じつげつせいしん)の幡」が使われているという。

日月星辰の幡

日月星辰の幡

「辰」は日、月、星の総称のことで、天体や空の事とある。「日月星辰の幡」には日、月、釣り針、北斗七星が書かれている。

まさに海人族の旗に間違いない。

そしてこの旗を掲げている、古代海軍があった。

それが海人・安曇族である。

安曇族は日月星辰の幡をご神体として崇めていたという。

「有明海」と言う漢字にも「日」と「月」が「有る」と表記している。もしかすると「有明」と言う名前は安曇族が付けたのかも知れない。  

安曇族

阿曇氏(あずみうじ、安曇氏)は、「阿曇(安曇)」を氏の名とする氏族。海神である綿津見命を祖とする地祇系氏族。阿曇族、安曇族ともいう。

古くから中国や朝鮮半島とも交易などを通じて関連があったとされ、後に最初の本拠地である北部九州の福岡志賀島一帯から離れて全国に移住した。

この移住の原因として、磐井の乱や白村江の戦いでの安曇比羅夫の戦死が関係しているとの説がある。

阿曇磯良

阿曇磯良

肥前肥後を分断するのは、筑後(福岡)である。

1-8b

なぜ、筑後が肥前肥後の真ん中に割り込んでいるかという謎だが、これは安曇族のせいかも知れない。

最初の本拠地である北部九州の福岡志賀島と有明海は、陸地で隔たれているが、古代の地図を見れば、大きな川もあり、行き来は十分可能だと思える。

北九州の弥生期の海岸線のイメージ 邪馬台国の所在地の比定 http://to-pa.jp/Kodi/kodi3020.htm

そして有明海は、安曇族の管轄の地域になっている。

安曇族は神系氏族とされ、大和朝廷以前、弥生時代の頃から重要な地位にあったという。

それが、大和に組み込まれていったと思われる。

本来、反大和の熊本地域なのだが、宇土半島の根元にはいくつかの前方後円墳があり 、火君(ひのきみ)」族の遺跡があり、大和勢の侵蝕が見て取れる。

以上のように、長崎、島原、熊本のつながりが、ハッキリ確認されたと思う。

ついに、色んなものが繋がったのである。  

今回の「金比羅山 謎の天孫降臨伝説を追え(4)」にも書いたが 金比羅神社の起源は、昔百済の琳聖太子が山上に香をたいて北辰を祀った故事に由来するといわれている。

北辰とは古代中国でよばれた北極星の事である。

また、長崎港の古名だが、「瓊杵田津(にぎたづ)」というのがあった。

にぎたづという名称は、他の県にもある。

「熱田津 にぎたづ」と書き、愛媛県の道後温泉の事である。

文字から言って、温泉が絡んでいる地名である。

長崎の港の近くに温泉がある。道の尾温泉という。

この道の尾という地名だが、道の最後、後ろという意味なのだが、愛媛県の道後温泉の道後も同じ意味なのである。

昔の道の尾温泉とその周辺(大正時代末期)

推論だが、愛媛県の道後温泉を模して、長崎の道の尾温泉を道ノ尾と呼んだのかも知れない。

そして「瓊杵田津(にぎたづ)」という港名だが、これもまた愛媛県の「熱田津 にぎたづ」を模している。

偶然とは思えない、そっくりさなのだ。

そして「熱田津」という場所は、安曇族の移住した地名として有名なのである。

これは「あづみ」という音の響きから、熱いという文字を使った場所が多いからである。

安曇族が移住した地とされる場所は、阿曇・安曇・厚見・厚海・渥美・阿積・泉・熱海・飽海などの地名として残されている。(ウィキペディア)

「北辰を祀った故事」と「熱田津」という地名から推理されるのは、長崎港に安曇族が住んでいたという事である。

金比羅山 謎の天孫降臨伝説を追え(13) 完結

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コメント

  1. ぎんくじら より:

    はじめましてこんにちは。火君を検索していてこちらに行き当たりました。長崎市人で古代史を考察されてるサイトは初めてです。
    これからゆっくり閲覧させていただこうと思います。

  2. artworks より:

    ごゆっくりご覧下さい