日本人がキリシタンになったわけ 信仰は科学から生まれた

長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産

長崎は隠れキリシタンの地域で有名である。

長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産が世界文化遺産となったくらいだ。

私は宗教には非常に興味があるが、信仰には無関心な人間だ。

神社の撮影を何年もやっているが、手を合わせた事はほとんどない。

なので、何百年も隠れて信仰を守り抜いた人々には驚嘆してしまうのだ。

信仰について考えるとき、メルギブソンが出演していた映画「サイン」の事をいつも思い出す。

元牧師のグラハムは妻の事故死以来信仰を捨てている。しかし息子の生還で信仰を取り戻すといった筋書きである。

サイン

この映画を見て、人が信仰を捨てる時と信仰を取り戻す時を深く考えるようになった。

そんな私が考えたのが、なぜ日本人はキリスト教を信じたのかという事だ。

大野集落

長崎の海沿いの外海という地域に大野集落というのがある。

先日、バイクでそこまで行き、大野神社、門神社、辻神社を撮影した。

大野教会

近くには大野教会があり、訪れた神社はキリシタンであることのカムフラージュのため利用された神社群だった。

この地区の人はなぜキリシタンになったのかといえば、大村藩の城主、純忠が1563年に洗礼しキリスト教を庇護したことにより、その影響を受けたためである。

だが1612年に江戸幕府が禁教令を発布したことで大村藩は手のひら返しをして、キリシタンを弾圧し始める。改教しない人たちは元々の住居平戸から、海沿いのへき地である大野地区まで逃げてきたのである。

長崎にはそんな集落が多い。

キリシタンに転向した人たち

戦国時代にはキリシタン大名が結構いた。

九州では大分の大友宗麟、島原の有馬晴信、そして大村純忠である。

彼らが純粋にキリスト教に傾倒したかは定かではないが戦国時代である。

やってきたキリスト教の背景にある、ヨーロッパの強力な軍事力に頼っていたことは想像できる。

しかし、キリシタンにならなかった大名のほうが圧倒的に多い事実がある。

町民もそうで、一時期長崎はキリシタンの町となっていた。

しかし長崎の人口を考えれば、キリシタンにならなかった人たちが圧倒的に多いのである。

ザビエルが日本を去った後、布教長やアルメイダらの精力的な布教活動を通じて、1570年までに約3万人の改宗者を獲得し、信長時代には約10万人の信者が誕生したといわれる。

この数だが、信長の時代の日本の人口は1400万人から1700万人と推定されている。

とすれば、信長時代にキリシタンになった人の割合は、0.7%である。

その後3万人だとすれば、0.2%となる。

この数字を見れば、東南アジアをキリスト教を先鋭部隊として侵略してきた西洋人からしてみれば、やはり極端に少ない。

慶長19年(1614)の頃、キリシタンの数は約3万人だといわれている。

島原の乱では2万人死亡したといわれ、その後の禁教政策でキリシタンを棄教した人たちも多かった。

なので、潜伏キリシタンの数を思えば、何千人から何百人という少数だとわかる。

信仰

人間は何を信じるのかは自由であるが、その信仰を得るには何か理由があるはずだと思った。

日本には古来より、神道があり仏教がある。それ以外にも土俗宗教や道教に偏った信仰もある。

いずれも交じり合い、日本教という独特の宗教を作り上げている。

そう考えれば日本は信仰に対してかなり寛容だと思う。

現在だって、結婚式を教会で上げたり、クリスマスを国民行事にしている国である。

その当時だって、キリスト教を受け入れる素地は十分あったと思う。

キリスト教の根本は、博愛主義だと思う。

これは仏教とよく似ている。

異説だが、キリストは放浪時代、仏教の影響を大きく受けていたという説があるくらいだ。

日本にやってきたザビエルたちは日本人に「大日を拝みなさい」と呼びかけたという。

デウスを「天道」、キリストを「大日(大日如来)」、聖母マリアは「観音」、天国(パライソ)は「極楽」。

日本人にしてみれば、とても分かりやすい説明だと思う。

これなら、宗教に寛容な日本人がキリスト教に宗旨替えしてもおかしくない。

しかし、それでもキリスト教は日本に広まらかったのである。

それは日本にやってきたキリスト教は純粋に思想だけではなかったからである。

日本侵略

キリスト教禁教の背景はヨーロッパの日本侵略があったことは皆さんご存じである。

ヨーロッパは、アジアに出てきてその地域を植民地にする力を持っていた。

つまり、鉄砲や大砲に代表される、最新の科学技術を持っていたのである。

フロイスの書簡には、信長が科学的談話を喜んでいた記述がある。

秀吉のキリシタン禁止令は結構甘い。

キリスト教を信じてもいいが、布教はするなと言っているくらいである。

秀吉の経済観念が富のある西洋を切り捨てることができなかったからだと思う。

だが、家康は違った。

秀吉勢と一戦を構える時、キリシタンが秀吉側につくのを恐れたからだ。

これにより、キリスト教の締め出しを徹底して行った。

西洋の侵略の尖峰であるキリスト教は、日本の新しい覇者家康によって、その野望を打ち砕かれてしまった。

これはキリスト教という宗教の話ではない。

西洋対日本の政治的なぶつかり合いだったのである。

宣教師

長崎のへき地大野集落の逸話が残っている。

日本でキリシタンになった人々の多くは、宣教師の献身的な行動に心打たれたのだ。

「彼は修道士でありながら、手ずから、あらゆる腫瘍、腐った瘻病、その他あらゆる病気を治療したが、(病人たちは)日本では珍しいことなので、その噂を聞いて各地から来訪した。

(そして彼は)それら病人たちに霊的にも肉体的にも助けたのである。彼はそこに或る薬局を設け、シナから多くの材料や薬品を取り寄せ、どのような病人でもそこで(アルメイダ)師の恩情に与かることができた」フロイス『日本史』より

ルイス・デ・アルメイダ

ここで注目したいのは、宣教師のアルメイダは外科手術に長けていたという事である。

この話は、ドラマの「JIN-仁」を思い出させる。

江戸時代へタイムスリップした脳外科医・南方仁は、現代医術の力で江戸時代の人を救ったという話だ。

まさに宣教師アルメイダは「JIN-仁」だったのだ。

日本にやってきた宣教師の科学的知識は、奇跡を感じさせるものだったのだろう。

JIN-仁

もう一人、特筆すべき宣教師がいた。

コスメ・デ・トーレスである。

彼の目指した「適応主義」というのは、現地の文化に根ざして生きることで、当時のヨーロッパ人の限界を超えた思想でだった。

その為、彼は他の宣教師とは異なり、肉食をやめ、質素な日本食を食べ、和服を着て布教に勤しんだ。

それは、その当時形式化して物欲に走る坊主や神主になかったものである。

異国の宣教師に見た本来の宗教家トーレスの姿と、医術を身に付け外科手術を行うアルメイダ。

このバディは日本人の心をしっかりつかんだのだ。

特に宣教師アルメイダが行った外科手術は奇跡であり、それは信仰の始まりだったのだ。

この二人に心酔し、人情と義理を感じた人々はキリスト教の信仰を持ち続けたのである。

それは、とても日本的な事だと思う。

そんな二人のような宣教師がたくさんいたら、日本は変わっていたかもしれない。

現在の日本のキリスト教徒の数は日本人全体の1%前後と言われている。

文化庁『宗教年鑑』平成29年版ではキリスト教系の信者数は191万4196人、割合で1.1%となっている。

信長の時代より少し増えているくらいだ。

これは「日本ではキリスト教が広まっていない」ということを端的に象徴している。

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