神話の中の日高見国 造化三神の暗号(3)

『古事記』は和銅5年(712年)に完成したとされる。

この記録には神代(かみよ)の出来事が記されているが、当然ながら古くからの伝聞を基に物語が構築されたものである。

そしてそこには、8世紀(700年代)の日本における思想が色濃く埋め込まれている。

天地開闢

『古事記』の冒頭、天地開闢の際に最初に現れた神は天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)である。

その文字通り、世界の中心となる存在を意味しているのだろう。

その次に、高御産巣日神(タカミムスヒノカミ)、神産巣日神(カミムスヒノカミ)が現れる。

ここに、東国の「日高見国(ひたかみこく)」の文字が隠されている。

高御産巣日の「タカミ」である。

漢字の導入によって日本には書かれた文章が生まれたが、言葉(言霊)自体は古来より存在していた。

漢字は後から伝来したものであり、当然、在来の「音」に対して当てられたものである。

つまり、日本の成り立ちの歴史を、漢字の音を通じて記紀(古事記・日本書紀)に織り込んだと考えられる。

そこから推測するに、初期の三神はそれぞれ以下の象徴だったのではないか。

天之御中主神 = 日本列島そのもの

高御産巣日神 = 日高見国

神産巣日神 = 大和国

「ムスヒ(産巣日)」とは「結ぶ」であり、我々に身近な「おむすび」の語源でもある。

すなわち、高御(タカミ)産巣日とは「日高見の集合体」であり、神産巣日とは「神々の集合体」を意味する。

大和は神の直系の子孫によって統治されていたため、非常に分かりやすい命名といえる。

最初に現れた「造化三神」とは、日本列島、そして大和(倭)と日高見の三位一体を記したものだと言えるのだ。

繰り返し言うが、これは8世紀(700年代)の日本の考えだったのだ。

「日」という文字が持つ理想郷の暗示

日高見国には「日」という文字が含まれているが、大和(ヤマト・倭)にはそれがない。

やはり「日」という文字は、当時の人々にとって理想郷を強く暗示する特別な文字だったのだろう。

それを象徴するのが、饒速日命(ニギハヤヒノミコト)という神の存在である。

この神は、神武天皇が大和へやってくる以前から、大和地方の君主として君臨していたとされる。

天孫降臨の神話において、一般的には瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が知られているが、実はニギハヤヒもまた「ニニギよりも前に、天の磐船に乗って大和に降臨していた」とされる、もう一人の天孫なのである。

大和の天孫 = 瓊瓊杵尊(ニニギ)

もう一人の天孫 = 饒速日命(ニギハヤヒ)

饒速日命

饒速日の名に「日」という文字が入っているということは、元来、饒速日は日高見国の系統に属する神だったのではないか。

そして、大和で彼を支えていた地元の武将が、長髄彦(ナガスネヒコ)である。

「長髄彦」という漢字を素真面目に読めば「長い脛(すね)の男」となるが、これはきっと動作が機敏で、素早い行動ができる勇猛な武将だったことを意味しているのだろう。

これに似た呼び名に、南九州の「隼人(はやと)」がある。

これは鳥のハヤブサのように俊敏で攻撃的な民族であったため、大和側が「隼人」と名付けた。

饒速日(ニギハヤヒ)の「速(ハヤ)」と長髄彦の身体的特徴の表現は、同様の俊敏な武力という意味において、通底するものがあると言える。

そして、この二部族は大和によって制圧されている。

さらに、この二部族は単純な敵ではない。

隼人は海幸彦・山幸彦の神話において山幸彦に服属した兄で、饒速日は大和と同じ天孫族だったという話になっている。

このシチュエーションの繰り返しは、古事記の物語性を豊かにして、さらに意外性や大和王権の懐の深さを誇示しているような気がしてならない。

大和の認識とエミシの脅威

東国の蝦夷(エミシ)の中に日高見国があり、そこには広大で肥沃な土地がある――これが大和王権の抱いていた共通の認識であった。

『日本書紀』において、東国を巡察した武内宿禰(タケウチノスクネ)が景行天皇に復命した報告には、蝦夷について「不敵にして、戦うこと猛し」と記されている。

また、蝦夷の「馬に乗って弓を射り、反りのある刀で斬り合う」という圧倒的な騎馬戦術に、大和勢は恐れおののいていた。

しかも、その強力な蝦夷の勢力は、かつては奈良のすぐ近くまで下りてきていた形跡がある。

大和(倭)勢としては、その肥沃な地を蝦夷の手から奪回(あるいは征服)するために、神武天皇の東遷が必要だったという側面もあるのではないだろうか。

「日(ヒ)」と「火(ホ)」の使い分け

天孫・瓊瓊杵尊と木花之佐久夜毘売の間には、火照命(ホデリノミコト=海幸彦)や火須勢理命(ホスセリノミコト)、火遠理命(ホオリノミコト=山幸彦)といった神々が生まれている。

ここで使われている漢字は「日」ではなく「火」であり、その読み方も「ヒ」ではなく「ホ」である。

なぜ、大和に「ひ」という音が存在したにもかかわらず「日」の字を当てなかったのか。

それは、「ひ」の音と「日」の文字は、東方の日高見、あるいは神武天皇が最終的に目指すべき「究極の理想郷」のために取っておくべき聖なるものだったからではないか。

神武天皇が東征のために九州を出発した地は「日向(ひゅうが)」である。

文字通り「日に向かう場所」だ。

この出発の時点で、すでに東方の日高見国(日の昇る理想郷)を最終的な国家目標として見据えていたとも言えるだろう。

「日本」という国名への憧れ

聖徳太子の遣隋使の国書にある「日出づる処の天子」という有名な言葉の裏には、中国側が日本列島のことを「日辺(日の辺り・東の最果て)」と認識していたことを、太子が事前に熟知していたという背景がある。

のちの『旧唐書』日本国伝には、次のように明確に記録されている。

「日本国は、倭国の別種なり。その国、日の辺(ほとり)にあるを以て、故に日本を以て名と為す」
「あるいは言う、倭国自らその名の雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本と為すと。あるいは言う、日本は旧(もと)小国、倭国の地を併(あわ)せたりと」

ここには、中国側から見た当時の情勢が生々しく書き残されている。

大和(倭)は、長年の歳月をかけて東の日高見国を飲み込んだのである。

そして、その東国の聖性を我がものとし、ついに「日本(ひのもと)」と名乗るに至った。

「日本」という国号を手に入れることは、長年「倭(背が低い、従順ななどの意)」と呼ばれ続けてきた大和朝廷にとって、まさに国を挙げた悲願であったと言える。

大和の最高祖先神は天照大御神(アマテラスオオミカミ)であり、その本名は大日孁貴(オオヒルメノムチ)とされる。

「ヒルメ」とは「日女」、すなわち太陽の霊力を宿した最高位の女性シャーマンを指す。

かつて「倭」と蔑称混じりに呼ばれ続けた大和政権は、「日本(ひのもと)」という憧れの名称を勝ち取り、当時の超大国であった中国側からも正式に「日本」と呼ばれたがっていたのだ。

その執着の証拠に、後世の天皇に贈られた「漢風諡号(かんぷうしごう)」を見てみると、名の中に「日」という文字が独立して単体で含まれている天皇は、不思議なほど一人も存在しない。

これは、中国の思想において「日」は天子(皇帝)そのものを象徴する絶対的な存在であったため、大陸への外交的配慮(忖度)から敢えて付けなかったものと考えられる。

それほどまでに、倭国(のちの日本)にとって「日」という文字は、中国王朝も一目置いた、軽々しく扱えない、極めて重要で神聖な言葉だったのである。

倭国のジレンマ

日本列島の関東以北の地域には、「日」の付く地域が多くある。

その象徴的なものとして、「日本中央の碑」というものもある。

日本中央碑 日本中央の碑歴史公園

これは1949年(昭和24年)6月、青森県東北町(旧・甲地村)の千曳集落近くで発見された、高さ1.5メートルほどの自然石に「日本中央」と刻まれた碑である。

この碑について歴史学者や考古学者の多くは、平安時代の本物である可能性に対して慎重、あるいは否定的だ。

しかし、平安時代のいくつかの文献や歌枕(詩歌に詠まれる名所)には、坂上田村麻呂が蝦夷征伐の際に「ここが日本の中心である」として、弓の筈(はず)や矢の根で石に「日本中央」と刻んだという伝説(「日本中央の碑」伝説)が実際に残されている。

(参考:東北王国(1) 日本中央碑の謎 https://artworks-inter.net/ebook/?p=5263

これ以外にも、飛騨(ひだ)山脈、現在の茨城県である常陸(ひたち)国、そして北上川の旧名とされる「日高見川」などに「日・ヒ」がついている。

 

日本プライド

中国には『山海経(せんがいきょう)』という奇書がある。古代の戦国時代から秦・漢代にかけて徐々に付加執筆されて成立したものと考えられており、最古の地理書(地誌)とされている。

この『山海経』にも、当時の東方の認識が書かれている。

鉅燕(きょえん)の南にある・蓋(がい)国は鉅燕の南、倭の北にある。倭は燕に属する。(海内北経)
※注:『魏志倭人伝』等に見られる「倭国は大海の内にあり、女を以て主と為す。その俗、露紒(ろけい)し、衣服に針功なし。丹朱を以て身に塗る。卜(ぼく)忌せず、一男に数十の婦なり」といった描写とも重なる世界観である。

さらに、次のような記述もある。

下に湯谷(ゆうこく)がある。〔谷中の水は熱い〕。湯谷のほとりに扶桑(ふそう)の木がある。十個の太陽が水浴びをするところである。黒歯国の北にある。水の中に大木が生えている。九つの太陽が下の枝におり、もう一つの太陽が上の枝にいる。
(略)神がいる。顔は人間で耳は犬、体は獣で、二匹の青い蛇を耳飾りにしている。

この文には、いろいろと思い当たることがある。

「女を以て主と為す」は卑弥呼のことか。「湯谷」は温泉。「顔は人間で耳は犬、体は獣で、二匹の青い蛇を耳飾りにしている」という描写の「体は獣」は獣の皮で鎧を作っていた蝦夷を指し、「二匹の青い蛇を耳飾り」は翡翠(ひすい)の耳輪(玦状耳飾)と推測ができる。

こう推理すると山海経はただの作り話ではないような気がする。

扶桑(ふそう)の木

扶桑(ふそう)の木とは東海上に立つ伝説上の巨木であり、そこから太陽が昇るとされていた。

後世、扶桑・扶桑国は、中国における日本の異称となっている。

大和の朝廷は、歴代の中国王朝が日本列島を古くから認識していたことを十分承知していた。

国力をつけた倭国は、「やまと」という自称に「大和」という文字を当てたりと、様々な工夫をしているのが見える。

そして「日の本」という漢字を選んだ理由の一つに、この「扶桑の木」の思想があったように思える。

「ひのもと」なら「元」という字もある。

しかし「日の元」ではなく「日の本」にしている。

「本」という字は植物の「根っこ(実体があるもの)」の意味が強い。

つまり、日本は東海上に立つ扶桑であり、そこから太陽が昇る輝かしい国だという思いが強烈だったのだ。

だからこそ、東北の「日高見」という、先に「日」を冠した地名が気に食わなかったのではないか。

東北勢を何世紀も「蝦夷」と呼び続けていたのもその理由だろう。

エミシがエゾに変わっても、中央からすれば常に「征伐すべき対象」であり続け、だからこそ「征夷大将軍」は日本武士の最高位であり続けたのである。

 

武士たちが最も大切にした精神に「名こそ惜しめ」という言葉がある。

自分の名前に誇りと責任を持って堂々と生きるのが本意だが、かつて「倭国」と呼ばれた屈辱から脱し、「日本」へと名を変えた古代の人々の心意気とプライドは、のちの日本古来の武士道へと、確実に繋がっているような気がする。

 

コメントを残す