毛野国と東国古代史の謎
古代の日本列島において、畿内のヤマト王権に比肩する強大な勢力を誇ったのが、現在の群馬県や栃木県を中心とする毛野国(けぬのくに)である。
「毛野」の語源には諸説あるが、草木や穀物を意味する古語、あるいは東北の「毛人(えみし)」と同根であり、北方の異文化圏と深く結びついていた地域性を表すという説が有力である。
この地はなぜ古代において突出した繁栄を極め、そしていかにして歴史の表舞台からヤマト王権へ統合されていったのだろうか。
毛野国が誇る最大の特長は、畿内に匹敵する規模と密度で築かれた巨大古墳群の存在である。
太田天神山古墳に代表される大型前方後円墳が次々と造営された理由は、榛名山や赤城山麓の広大な放牧地を活かした高度な馬匹生産と、圧倒的な鉄器文化にあった。
東日本最強の騎馬軍団と高い土木技術を有していた毛野国は、単なる地方の従属勢力ではなく、独自の経済・軍事基盤を持つ東国の巨大王国であった。
この飛躍的発展を支えたのが「渡来系ネットワーク」の存在である。
当時の毛野国は「埴輪王国」と称されるほど精巧かつ多彩な人物埴輪を産出したが、その中には大きな鼻や帽子、深い髭など、明らかにユダヤ系をはじめとする異人風の容貌をした人物埴輪が存在する。
渡来人がこの地に集まった理由は、王権の干渉が及ばない広大な未開拓地があり、馬匹飼育や製鉄、土器・埴輪製作といった最新技術を存分に発揮できる新天地であったからだ。
毛野国はユーラシア大陸の先進技術を持つ人々を積極的に受け入れ、独自の国際色豊かな文化を開花させた。
しかし、この東国の独立王国も次第にヤマト王権に飲み込まれていく。
534年の「武蔵国造の乱」において王権と結んだ勢力が勝利したことで、毛野国は周囲を親ヤマト勢力に囲まれ、東西から挟み撃ちされる格好となった。
さらに白村江の戦いや律令国家の形成過程で、王権は毛野国の優れた軍事力を中央の支配下に組込み、やがて上野国と下野国へと分割・解体して中央集権体制へと収斂させていったのである。
一方で、東国の宗教的・軍事的重要性を象徴するのが香取神宮(千葉県)と鹿島神宮(茨城県)の存在である。
両社はヤマト王権が東国や北方のエミシ勢力へ影響力を伸ばすための軍事拠点であり、東の果てを抑える要塞としての役割を果たした。
ここに祀られる経津主神と武甕槌神は、出雲の国譲り神話において中心的な役割を果たした武神である。
出雲王国の服属と東国征討は連動しており、出雲の神威を排した王権の軍勢が、香取・鹿島の地を最前線基地として東国の平定を進めた歴史的背景が隠されているのである。



