アイヌとモンゴル帝国の40年戦争

北の元寇 — アイヌとモンゴル帝国の40年戦争

鎌倉時代、日本を揺るがした「元寇(蒙古襲来)」といえば、誰もが博多湾での激戦(文永の役・弘安の役)を思い浮かべるだろう。モンゴル帝国の軍船が海を埋め尽くし、日本の武士たちが防塁を築いて迎え撃った歴史である。

だが、この時、日本列島の遥か北の海でも、もうひとつの「元寇」が起きていた事実はあまり知られていない。

舞台は樺太(サハリン)からアムール川(黒竜江)流域。戦ったのは、世界最強の軍事力を誇るモンゴル帝国「元」と、北海道から樺太へと進出していた「アイヌ民族」である。

この戦いは単なる小競り合いではなく、1264年から1308年まで、実におよそ40年以上にわたって繰り広げられた。北方の海と大森林を舞台にした知られざる大戦争の全貌を追ってみよう。
 
 

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なぜアイヌとモンゴル帝国が激突したのか

発端は、13世紀半ばにおける北方民族同士の勢力争いだった。

当時のユーラシア大陸では、チンギス・カンが興したモンゴル帝国が急速に領土を広げていた。
 
クビライ・カアンの時代になると、アムール川下流域に暮らす狩猟民族「ニヴフ(当時の中国史料では吉里迷=ギレミと呼ばれる)」も元の支配下に組み込まれ、クロテンの毛皮や鷹などを朝貢品として納めるようになっていた。
 

ニヴフ(ギリヤーク)

一方で、同じ頃の北海道では、縄文・擦文文化の流れを汲むアイヌ民族が勢力を急拡大させていた。優れた航海術と狩猟技術を持っていたアイヌの人々は、豊かな猟場と交易ルートを求めて宗谷海峡を渡り、樺太南部から北部へと進出を始める。

こうして、樺太北部で暮らしていたニヴフの居住地や漁場をアイヌが圧迫する事態が生じた。

ニヴフの人々は自力で対抗できず、宗主国である大帝国・元に助けを求めたのである。「骨嵬(クイ=アイヌのこと)が毎年のように攻め込んできて困っている。どうか助けてほしい」

1264年、クビライはこの訴えを聞き入れ、樺太への出兵を決断した。これが「北の元寇」の幕開けである。
 

北海道アイヌ - Wikipedia

 

40年にわたる泥沼の戦い

1264年、元軍は軍船を仕立てて初めて樺太に上陸し、アイヌ軍を攻撃した。元軍はいったん勝利を収めて引き揚げたが、アイヌの人々が屈服することはなかった。元軍が去れば再び樺太へ戻り、ニヴフへの圧迫を再開したのである。

本格的な全面戦争に突入したのは、九州での「弘安の役(1281年)」が終わった後のことである。

元朝は南宋を滅ぼし、日本遠征が一服したことで、北方への戦力投入を本格化させた。1284年以降、元は数千人規模の軍勢や万戸(将軍クラス)を幾度も樺太へ送り込み、長期戦に備えて島内に方形の土塁を持つ基地(クトナイ土城など)を築いた。

だが、アイヌ軍の抵抗は元の予想を遥かに超えていた。

アイヌの戦士たちは、サハリンの複雑な海岸線や湿地帯を熟知していた。軽快な丸木舟を巧みに操り、敵が現れれば神出鬼没のゲリラ戦を展開した。接近戦では毒矢を雨のように降らせ、重装備で動きの鈍い元の兵たちを大いに苦しめたのである。

さらに驚くべきことに、アイヌ軍は防戦一方にとどまらなかった。

1297年、アイヌ軍は樺太から間宮海峡を渡り、なんとユーラシア大陸側へ逆侵攻を仕掛けたのである。アムール川下流域にあった元の前線拠点「キジ湖周辺の砦」を奇襲し、元の守備隊と激しい白兵戦を演じた。

世界帝国モンゴルの本拠地である大陸側に攻め入った民族は、世界中を見渡しても極めて稀である。

 

戦いの終結と和睦


強大な軍事力と補給力を持つ元と、地の利と機動力を活かして戦うアイヌ。戦いは決定的な勝敗がつかないまま、40年近く続いた。

しかし、長引く戦争は双方にとって消耗戦でしかなかった。元にとっても極寒の北方での維持費は重荷であり、アイヌ側にとっても交易が滞ることは死活問題だった。

1308年、ついに講和の時が訪れる。

アイヌ側が元に使者を送り、毎年毛皮(クロテンなど)を納めることを条件に和睦が成立した。元側もアイヌの樺太での活動を認め、40年以上に及んだ戦争は幕を閉じたのである。

 

歴史がもたらした果実 — 「山丹交易」の成立

この「北の元寇」は、単なる地方の戦闘では終わらなかった。戦いの後に結ばれた朝貢関係こそが、のちに北海道と大陸を結ぶ巨大な交易ルートを生み出すきっかけとなったのである。

元が滅び、明や清の時代になっても、この朝貢・交易体制は受け継がれた。これが江戸時代に本格化する「山丹(さんたん)交易」である。

アイヌはアムール川流域の山丹人(ウィルタやニヴフなど)を通じて、中国王朝(清)の最高級の絹織物(蝦夷錦=えぞにしき)やガラス玉、鉄製品を手に入れた。そしてそれを北海道へ持ち帰り、松前藩や本州の和人商人に高値で売り渡した。

江戸時代の松前藩主や徳川将軍、さらには本州の有力大名たちが愛用したきらびやかな中国絹「蝦夷錦」は、かつてアイヌが命がけでモンゴル帝国と渡り合い、切り拓いた北方ルートを通ってもたらされたものだったのである。

 

語り継ぐべき「もうひとつの日本中世史」

九州の元寇において、鎌倉武士たちが「神風」と防塁で国を守ったことは広く語り継がれている。
だが同じ時代、日本列島の北端では、アイヌの人々が自らの生存圏と交易路を守るため、独力で世界最強の大帝国に立ち向かっていた。そして屈服するのではなく、対等な交渉の末に和睦を勝ち取り、のちの北方交易の主役へと躍り出たのである。
北の海で繰り広げられた40年戦争。それは、アイヌ民族が単なる受動的な先住民族ではなく、自らの意思と高い軍事力・外交力を持って東アジアの国際政治を動かしていた、ダイナミックな歴史の証拠に他ならない。
 
 

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